彼はおそらく、「荷物を隣の席に置いている」という「咎められる」ことをしている私のバッグの上にわざと座り、私が文句を言うことを期待していたのではないか。そうすれば、「ここに荷物置いてたお前が悪いんだろ!」と盛大にキレ散らかすことができる。
いつからか、そんな出来事に遭遇することが増えている。
小田急線、京王線の事件の後には電車内で「爆発寸前の自分」をアピールする若い男性を何度か見かけた。わざと大きな舌打ちをしたり、苛立った様子で乗客を舐め回すように見つめたり、口の中でブツブツと呪詛を吐き続けたり。当然車内の空気は緊張するわけだが、そのような反応を楽しんでいる様子で、その姿は何かへの「復讐」にも見えた。
なぜ、一部の男たちはこれほどまでに苛立ち、憤懣やるかたない思いを抱えているのか。そして時に、自暴自棄な事件を起こすのか。小田急線、京王線の事件だけではない。22年1月には、東京・代々木の焼肉店に28歳の男が立てこもり、逮捕されている。男はその2週間前に長崎県から上京したものの野宿生活となっており、警察の調べに対し「生きている意味が見出せず、死にたかった」「最近あった電車内の事件みたいにしたかった」と話したという。
自暴自棄に見えるいくつかの事件の背景にちらつくのは、「承認」の問題だ。
ひと昔前であれば、男性は働いてさえいれば承認が得られ、一人前の扱いを受けた。働きながらも半人前の扱いを受け、半人前の賃金しか得られない立場の男性は今よりずっと少なかったので、多くが結婚できたし家庭を持つこともできた。
しかし、それが著しく難しくなったのが現在40代のロスジェネとその下の世代だ。親世代との大きな差は、雇用が安定していないこと。これにより、将来設計を立てられず、安定した生活も望めず、結婚が遠ざかった層は、当人だけに非があるわけではないのに「いつまでもフラフラしてる」など、承認とは正反対の侮辱を日常的に受けるようになった。
そのような鬱屈は、時にSNSなどでフェミニストを執拗に叩く行為に繋がり、また世界的に問題となっている「インセル」を生み出す下地にもなっているように思える。
ちなみにインセルとは、「非自発的な禁欲主義者」と言われ、恋愛やセックスの相手を欲しているが叶わず、その原因は女性の側にあると考える男性のことを指す。このようなインセルが起こした事件として有名なものはいくつかある。
代表的なのは14年、アメリカで起きたアイラビスタ銃乱射事件。「女への復讐」を宣言し、6人を殺害、14人を負傷させて自殺した22歳のエリオット・ロジャーは、インセルを自称していた。
この犯人はインセルの間で英雄視され、18年にはアメリカ・フロリダ州の高校で銃乱射事件が発生、17人が殺害される。犯人はネットに「エリオット・ロジャーは不滅だ」と書き込んでいた。
同年、カナダでは「インセル革命は始まっている!」などとSNSに書き込んだ男が車で通行人に突っ込み10人を殺害。死者の多くは女性だった。
女性を標的にした殺人は「フェミサイド」と言われるのだが、私が「フェミサイド」「ミソジニー(女性嫌悪、蔑視)殺人」という言葉を初めて聞いたのは16年。
この年、韓国・ソウルの江南駅近くにある男女共用のトイレで、23歳の女性が34歳の男性に刺し殺されたのだ。2人に面識はなく、逮捕された男性は犯行動機を「女たちが自分を無視したから」「女なら誰でもよかった」と供述。男は個室トイレに潜んでいたのだが、女性の前にトイレに入った6人の男性には目もくれず、7人目に入ってきた女性を殺したのだ。事件は「江南ミソジニー殺人事件」と言われ、韓国のフェミニズムに火をつけた。
ここ数年、日本でも韓国のフェミニズムが話題だが、最近ではその反動も現れている。20代男性の間で反フェミニズムの動きが広がり、そのような男性は「イデナム」と呼ばれているのだ。このイデナム、22年の韓国大統領選にも大きな影響を及ぼしたと言われている。
そんな韓国で起きていることは、日本と非常に近い。
例えば韓国では2000年代に若者が「88万ウォン世代」と呼ばれるようになった。大学を出ても正社員の職がなく、多くが非正規になる20代の平均月収が「88万ウォン」であることから名付けられた世代だ。
それが10年代に入ると若者をめぐる状況はさらに過酷になる。11年には若者が「三放世代」と名付けられた。「3つ」のものを諦めた世代という意味だが、それは恋愛、結婚、出産。諦めるものはどんどん増え、三放に加えて就職、マイホームも諦めた「五放世代」という言葉が登場し、これに人間関係、夢が追加された「七放世代」となっていく。そうしてとうとうすべてを諦めた「N放世代」という言葉まで登場した。
若い世代がこのように名付けられる背景にあるのは、日本と同じ厳しい雇用情勢だ。
さて、このように他国でも同じような状況があるわけだが、日本の雇用情勢を振り返ると、男性よりも女性の方が厳しい状況に置かれている。非正規雇用率はすべての世代において女性の方が高い上、平均賃金だって女性の方が低い。例えば非正規だけで比較しても、男性非正規は228万円なのに対し、女性非正規は153万円だ(国税庁「令和2年分 民間給与実態統計調査」)。
しかし、女性が暴発的な事件を起こしたという話は滅多に聞かない。唯一、「死刑になりたかった」という動機を語ったのは、22年、東京・渋谷区の路上で中学3年生の少女が母娘を切りつけた事件だけだ。
また、昨今は非モテなどを巡る議論の中で「弱者男性に女をあてがえ」論まで出てきているが、その逆の「男をあてがえ」論などお目にかかったことはない。
なぜか。それは、女性にとって男性は支配や束縛、DVなど常にリスクになりえる存在だからではないか。一方で、一部男性にとっての女性は男性の「モテ・非モテ」問わず、承認とセットでもたらされるものであり、「頑張った俺様に対するご褒美」的なものに見える。