塩見さんが私を北朝鮮に誘ったのは、そんな状況に置かれたよど号の子どもたちに、日本の友人を持たせてあげたいということもあったようである。
そうして初めての平壌行きで私は娘たちと意気投合。歳の差が数歳の3人とすっかり仲良くなり、彼女たちが日本に「初来日」する際には平壌まで迎えに行ったり、一時期は私の家に滞在していたりした。
それが2001年のことなのだが、その前年の00年、日本赤軍の最高幹部である重信房子氏が国内で潜伏中に逮捕される。
翌01年、重信氏の娘であるメイさんが無国籍状態から初めて日本国籍を取得、レバノンから初来日するという出来事があった。
そう、「革命」を目指して海を渡った活動家の子どもの一部がこの頃、国籍を得たり日本に初来日したり、初めてその存在が明かされたりしていたのである。ちなみに私もよど号の娘3人もメイさんも、この時期、全員が20代。
そんな面々が、面会のために訪れた東京拘置所の待合室で鉢合わせるなんてこともよくあった。
このような経緯で、「政治の季節への関心」は「同世代の、非常に数奇な運命の子どもたちとの交流」にもつながっていったのだが、「こんな経験をしているのは日本で私くらいだろ」と、つい最近までいい気になっていた。が、「まさかこの人がこうだったとは!!」と度肝を抜かれたので、そのことを書きたい。
といっても、その人と、私は会ったことがない。が、名前は知っていた。脚本家としてだ。
ではなぜもろもろを知ったのかと言えば、彼女が最近、本を出したからである。
タイトルは、『爆弾犯の娘』(ブックマン社、2025年)。著者は、映画『夜明けまでバス停で』(G・カンパニー、2022年)、『「桐島です」』(北の丸プロダクション、2025年)の脚本家である梶原阿貴(あき)さん。1973年生まれで私の2歳年上だ。本の帯には、以下のような言葉がある。
〈「黙っていたけど、あなたのお父さんは、役者でクリスマスツリー爆弾事件の犯人なの。あなたが生まれる前のこと。それからずっと、十四年も隠れて暮らしているの」
「見つかったらどうなるの?」
「逮捕されちゃう」
左翼、革命、学生運動、自己批判、人民の子……父は、何を守りたかったのだろう?〉
いやー、びっくりした。とにかく私はブッたまげた。同世代の著名な脚本家の父親が、まさか「爆弾犯」だったなんて。
ちなみにここで書いておきたいのは、派出所に仕掛けた爆弾は爆発前に配線コードが切られて爆発しなかったということ。また、所属したグループの事件で死者は出ていないことも書いておきたい。が、怪我人は出ているわけで、もちろん許されることではないことは強調しておく。
さて、そんな事件の果てに父親は潜伏生活をしていたわけだが、驚くべきことに、梶原氏と同居していたのだから警察もびっくりだろう。
〈我が家に隠れるようにして暮らしている、青白い顔の『あいつ』。あいつは、靴を持っていない。靴だけではない。あいつには、名前がなかった。しかも最悪なことに、あいつは私の父親だった〉
本の表紙をめくったところにある文章だ。
そんな潜伏犯である父親との生活では、さまざまな「掟」が彼女を縛る。
まず、家の場所を誰にも教えられない。「母と娘の二人暮らし」だと周囲には言わなくてはならない。枕元には各々のボストンバッグを置いておくというのも掟のひとつ。何かあればすぐに逃げられるようにするためだ。そして肌身離さず持っていなければならない「お守り」。大変なことが起きた時しか見てはいけないと言われていたものの、中を開けると以下のような言葉があったという。
〈明日の朝、私たちがいなくなっていても一人で強く生きていってね〉
なかなかハードな人生ではないだろうか。
そんな父親との日常は「茶番」にも満ちていたようで、例えば母とともに家に帰宅すると、父親は「おかえり。僕もさっき戻ったところなんだ」と、電気のついていない部屋から迎えるそうだ。
トイレにはいつも溜まったまま流されていない尿。母は、「あいつ」は自分たちが学校や仕事に行った後に会社に行き、自分たちが帰る少し前に帰宅してくると言う。が、靴がないのにどうやって外に出るのか。
それ以外にも謎は多い。
なぜ、電話のベルが3回鳴って切れて、を3回繰り返さないと電話に出ないのか。「ジンミンノコ」とは、どういう意味なのか。なぜ、交番の前を通ってはいけないのか。「困った時は110番」もしてはいけないのはどうしてなのか。
結果、子ども時代の梶原氏は迷子になった時もお巡りさんに「完全黙秘」を貫いたため、なかなか迎えに来てもらえなかったというから、なんというか、罪深いけど、味わい深い。
そんな生活の中、母が交通事故に遭ったりと大変なことが次々と起こってもうページをめくる手が止まらないのだが、読み進めていくうちに、「東京の潜伏爆弾犯であり元役者のもとに産まれた子どもの文化資本の高さ」ということも突きつけられた。
例えば彼女は小学生にして東京・新宿の花園神社で開催された「状況劇場」の芝居を見ている。言わずと知れた唐十郎氏の劇団の芝居に、母に連れられ行っているのだ。その歳で状況劇場を体験できるなんて、なんという英才教育、とため息が漏れてくる。
初めて見た翌年にもまた行き大きな衝撃を受け、〈この先、大人になっていろんな芝居を見るかもしれないが、この芝居はトップの座を明け渡さないだろうな〉という気がしたというから贅沢すぎる環境だ。 脚本家になるべくしてなったようなものではないか。
ちなみに同時期(1980年代なかば)、北海道の田舎の小学生だった私はシブがき隊のモッくんに夢中で、2人の弟と『コロコロコミック』を奪い合うという日常を過ごしていた。