「日本サッカー協会にも(調査に)あたってもらっているのですが、協会も保有していないそうです」
声の主は四國光(しこく・ひかる)さん。広島大学附属東雲中学校サッカー部出身の四國さんは広告代理店勤務時代、マーケティングのプロとしてJリーグクラブチームのPRや、2002年日韓サッカーW杯開催都市へのPR活動提案の業務なども担っていたが、仕事とは別に大阪のNPO法人「吹田フットボールネットワーク」(現在は一般社団法人)を立ち上げ、子どもたちに対する普及や育成にも尽力してきた。その四國さんが、今、探しているものがある。父・四國五郎氏が手掛けたサッカー国際親善試合の宣伝物である。
「私が生まれる5年前、1951年にスウェーデンのプロチームが来日して、日本代表などと試合を重ねたのですが、原爆孤児救済をテーマに広島でも試合をしたんです。そのときの試合のポスター、チラシ、チケット、宣伝物全般のデザインを父はサッカー協会から依頼されて描いていたのです」
四國五郎氏は、一般的な商業デザイナーではない。原爆投下に対する痛烈な怒りと悲しみを描いた絵本、『おこりじぞう』(山口勇子・原作、沼田曜一・語り文。金の星社、1979年)を代表作に持つ反戦平和の詩画人で、今年(2025年)日本がW杯出場を決めた10日後の3月30日、没後11年を迎えている。
父・五郎氏の生涯を描いた四國光氏の著作、『反戦平和の詩画人 四國五郎』(藤原書店、2023年)
その半生は「二度とあの誤った道を歩まぬために」戦争を記録し伝えることに一生を捧げた壮絶な歴史でもあった。第二次世界大戦中、中国に出征していた五郎氏は敗戦後シベリアに抑留された。零下50℃に及ぶ極寒の地で、馬の餌の食い残しさえ漁ったという極限の飢えと想像を絶する過酷な強制労働を強いられながら、克明な日記を極秘裏に書き続けた。ソ連軍はシベリアの収容所におけるすべての記録を禁止しており、メモが見つかれば粛清を覚悟せねばならない環境下で、五郎氏は、幾度も死地を彷徨いながら、名刺大のノートを密かに自作し豆粒のような字で記録を書き続けた。靴裏に隠し、命がけで日本に持ち帰ったその「豆日記」と、復員後すぐに記憶を元に描き起こした1000頁を超える画文集『わが青春の記録』(1950年に自家製本。2017年に三人社から上下巻で刊行)は、シベリア抑留の実態を知る貴重な資料となっている。
豆日記(資料提供:四國光氏)
1948年に故郷広島に帰った後、最愛の弟の被爆死を知った五郎氏は画と詩による決死の反戦活動を展開していく。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が厳しい言論統制を敷く中、「辻詩」(つじし)と名付けた反戦・反核ポスターを手描きで作成し、仲間の若者たちが逮捕覚悟でゲリラ的に広島の街中に貼りまくった。反戦、反権力をテーマにしたグラフィティを路上に描く正体不明のストリート・アーティスト、バンクシーの現れる半世紀以上前の活動である。原爆文学の象徴、「ちちをかえせ」で知られる峠三吉(とうげ・さんきち)の『原爆詩集』も1951年の刊行当時は官憲のマークに遭っていた(東京の出版社が発禁を恐れて出版を拒否したため、広島でガリ版刷りの自家版で500部だけ出された。当時を知る方によると、この詩集を持っているだけで「怖かった」という)が、五郎氏はまったく臆さず挿絵や装丁を担当していた。
生涯をかけて行われた絵と詩を通じての平和運動は、没後米国オーバリン大学のアン・シェリフ教授によって英文ウェブサイトが開設されて世界に向けて発信されている。マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー教授が制作したサイトにも被爆の実相を描いた36枚の絵が掲載されており、被爆の惨禍を学ぶための教材として世界で活用されている。
その五郎氏は、サッカーもまた深く愛していた。日本代表の木村和司や沖宗(おきむね)敏彦、森島寛晃、田坂和昭らを生んだ広島の名門・大河(おおこう)FCの土台となった大河小学校時代の出身で、幼い頃からこの競技に熱中し、シベリアにおける最後の抑留地となったナホトカでもボールを蹴っていたという。当時のことを、先述した著作『わが青春の記録』にこう記している。
「このころ『朝鮮』から徴兵された三〇名ばかりが入所。毎日ボールばかり蹴っているので入れてもらったが、段違いに上手。元気旺盛なり」
ナホトカには1930年代から囚人のためのラーゲリ(強制収容所)が常設されていたが、戦後は満洲から、多くの捕虜が連れて来られていた。
満洲国は日本の傀儡(かいらい)国家であったが、表向きのスローガンとして五族協和(日本民族、満洲族、漢民族、蒙古族、朝鮮族)を謳っており、独立国を装うために満洲国蹴球協会もFIFA(国際サッカー連盟)に加盟申請を出していた。FIFAは満洲国が実質日本の支配下にあることを看破してこれを拒否するのであるが、いざ試合などをしてみると、この5民族の中でも朝鮮族が圧倒的にテクニックに長けていたと、筆者は当時を知る満洲帰りの人たちから証言を得ている。これは五郎氏の記録も裏付けとなる。何しろ朝鮮総督府は朝鮮人がこの得意なスポーツに乗じて反日活動に転じることを恐れて、「蹴球統制令」を発布しかけていたほどである。