個々の事例に関しても、例えば先述したセルビア人を1200人虐殺したというムスリムの武装勢力指導者ナセル・オリッチの量刑は、訴追した検察のカルラ・デル・ポンテが「短すぎる」と嘆いた禁錮2年(事実上は2年の懲役刑)で済んでいる。また「クライナの嵐作戦」で、クロアチアからセルビア人を20万人以上追い出し、難民化させるという民族浄化を行ったクロアチア人のアンテ・ゴトビナ将軍に至っては、2011年の一審で懲役24年の判決が出されるが、翌年の控訴審では何と無罪となって釈放されている。「ゴトビナは何か大きな力で守られているのではないか」とクロアチア人ジャーナリストですら驚いていた。
もちろん、だからと言って、無辜なる住民をだまして一方的に殺害したスレブレニツァの虐殺が相対的に矮小化されるようなことは断じてあってはならない。セルビア民族主義者による歴史修正の動きも見られるが、それは厳然たる事実である。しかし、国際社会の不公正はそれとは別の問題として論じられなければならない。
「戦犯の息子」への取材
18年春。真実には向き合うとしながらも、ICTYは公正に裁いて欲しい、と声を上げ続けている「彼」に、筆者はベオグラードで会った。『スレブレニツァ』に登場するD。ムラジッチ将軍の息子、ダルコ・ムラジッチである。
ダルコには終身刑で結審した戦犯の息子というレッテルが貼られ続けている。国際社会にとってはもちろん、一日も早いEU加盟を国是とするセルビアにおいて、ムラジッチ将軍はすでに国内法で裁くことを放棄し、ヨーロッパに差し出した犯罪人なのである(11年、ムラジッチ将軍は当時のセルビア大統領であったタディッチの意志の元、セルビア警察によって国内で逮捕され、ハーグに移送された)。紛争時にはセルビア民族の英雄としてムラジッチ将軍を讃えていた右派や身近な人々も、手のひらを返したように戦犯として冷淡な態度で批判している。17年11月にムラジッチ将軍の判決を出した後、ICTYも24年間の役目を終えて翌月に閉廷した。
ダルコの声はあまりに弱く、小さい。それでも彼は発言を止めない。それならば聞かなくてはならない。その声を。
息子から見たムラジッチ将軍とは
指定されたカフェにダルコは、身ぎれいなスーツ姿で現れた。仕事帰りだという。ダルコは今、IT系のアウトソーシングの会社に勤めている。長の感想にある通り、確かにハンサムである。そして物腰も柔らかくベオグラード大卒の知性も感じられる。過去に何人か取材したセルビア民族派右翼とは大いに異なる人物がそこにいた。
父親のことを聞きたいと切り出した。
ムラジッチ将軍はハーグの法廷で唯一表情が大きくほころんだのは、証人として出廷した明石康・元旧ユーゴスラビア問題担当国連事務総長特別代表が「セルビア人に対しては、終始愛国者であった」と証言をしたときであったという。それはムラジッチ将軍にとっては、潔白であると言われるよりも誇らしい言葉であったのであろうか。ならばスレブレニツァでの虐殺は、彼なりの「愛国者」としての行動だったということか。
尚武の気風を貴び、軍人時代は少ない給料に一切の不満を言わず、つましい生活をしていたという。それはどのようなものであったのか。
「普段の父は軍人のイメージとは反対にとてもあたたかくて、優しい人でした。一つだけ厳しかったのは、私たちの義務について。つまり私と姉は勉強をしなければなりませんでした。それに対しては厳しかったです。父は仕事上、よく家を空けていました。しかし一緒にいるときは、山に行ったり、海に行ったりしては、軍事施設に滞在しました。それが思い出です。
父の価値観の中では、経済的なものは高い位置を占めていなかったので、平均的な軍人の生活を送っていました。戦争が始まって、ハイパーインフレが始まると、他の一般市民の人々と一緒の生活を送っていました。一時期は、ひと月5ユーロくらいの給料しかなかったので、それでやりくりをしていました。司令官に昇進しても一般の軍人と同じ待遇で良い、それが彼の強い要望でした。当時は私も姉も学生だった。インフレが酷い時は学生用の食券を使って学食に並び、家族で分けあって食べていました」
虐殺、指名手配、潜伏生活
素朴な疑問として立ち上がってきたのは、息子として、戦犯訴追されていた父親をどう見ていたのか。1995年のスレブレニツァの虐殺について、父から何か聞いてはいないのか、ということであった。
「95年当時、私はベオグラード大学で電気工学を学んでいましたが、何も聞きませんでした。私たちの家族の間では、父の仕事について一切話をする機会はありませんでしたし、特に子どもに対しては何も語りませんでした。一つだけ覚えている重要な思い出があります。父の母が『あなたがその虐殺の指令を出したのか? はっきりと答えて欲しい』と問いただしたとき、『私のことを疑っているのですか』と答えていました」
戦地と、国連部隊との折衝の場とを往還していた父との物理的なすれ違い。加えて、父もまた家族には血なまぐさい現場のことは一切、口にしなかったということか。
ICTYに訴追されてからはどのような生活をしていたのか。デル・ポンテ検事が血眼になって探しても逮捕に至らなかったのは、やはりムラジッチ将軍を匿うシンパが多かったことの証左でもあろう。国際社会から数々の制裁を受けながらも、民族の英雄を引き渡したくはないという民衆からの支持が無ければ、インターネットが急速に普及し始めた時代に隠れ通せるものではない。
「父に対する大衆の支持があったのは確かです。訴追されてからは、16年に及ぶ長い期間の中、いろいろな段階がありました。セルビア大統領がミロシェビッチだった時代には、国が父を引き渡すことはなかったので、特に隠れる必要はありませんでした。96年に脳卒中を患って体を壊しました。たまに逮捕されるのではないかという情報が入ると、兵舎に行って兵士の間に身を隠したりしたこともあります。2000年10月5日(ミロシェビッチ政権が倒されたブルドーザー革命)以降も、家族として同じ家で住み続けました。父はその頃は軍人を退役して年金生活をしていました。しかし、その後ミロシェビッチ自身が逮捕され、ハーグ法廷に送られると(01年7月)、それ以後は身を隠すために家を出たのです」
民族主義者のミロシェビッチが独裁を敷いていた時代は、ICTYに訴追されても国家によって守られていたと言えるだろう。拙著『悪者見参』にも記したが、当時のセルビア世論のほとんどが、「戦争犯罪は追及すべきだが、まずは国内法で裁くべきだ」という論調であった。
しかし、ミロシェビッチ政権が崩壊するとパタリと風向きが変わる。ミロシェビッチの失脚後にセルビアの首相となったゾラン・ジンジッチの手によって、戦犯容疑者が次々と逮捕されてハーグに送られることになった。
ボスニア紛争
ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ユーゴスラビアからのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立をアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突につながった。95年にデイトン和平合意によって終結。
「クライナの嵐作戦」
セルビア人勢力がクロアチア領内で91年に樹立を宣言したクライナ・セルビア人共和国に対し、95年8月にクロアチア軍が仕掛けた軍事攻撃。クライナ・セルビア人共和国はこの攻撃により消滅した。