ジンジッチ自身、この行為が民族主義者からの大きな反感を買い、03年3月に暗殺されてしまう。
暗殺直後に、ジンジッチが所属していた民主党の議員にインタビューしたことがあるが、「EU加盟に向けて進みたいならばICTYにいつまでに戦犯を何人送れ、など、散々西側からプレッシャーをかけられたゾランは、急ぎ過ぎたことで殺されてしまったのだ」と語っていた。
ところで、明石康の分析によればミロシェビッチは「機会主義的ナショナリスト」である。いわば大衆からの支持を取り付けるための民族主義者であったという。果たしてムラジッチはミロシェビッチに対してどのような評価をしていたのか。
「父は、ミロシェビッチの政治的意図は理解できたが、実現のために動かしていた戦略は良くなかったという意見でした。二人は共にセルビア民族のために戦った同胞ではありますが、しばし離れることもありました。最後にミロシェビッチから要望があったのは、1999年、コソボ紛争でNATO軍からの攻撃があることが分かったときのことです。ミロシェビッチから軍事顧問をやってくれないか、という提案がありました。父はそれに対して、軍人として生きるのは望むところだが、政治的な仕事はやらないと断りました。何を考えていたかはともかく、ミロシェビッチに対しては大きな尊敬の念を持っていました。そしてそれはミロシェビッチも同じだと思います」
国際社会とセルビアとを隔てる溝
「今は、セルビアと西側社会の間で、あのときどういうことが約束されて、どういうことが実現されたかを考える必要があるのではないでしょうか。紛争後、国際社会はセルビアを一方的に悪者にして、『民主主義のために』『生活を良くするために』戦犯を引き渡せという要求を突き付け、それをジンジッチは遂行しました。そのために多くのセルビア人は誇りを傷つけられました。しかし、西側の約束は、ほとんど実現されていません。それを今、我々は確認できるのではないでしょうか」
ダルコはトルココーヒーを口に運んだ。セルビア側の見方からすれば、ボスニア紛争では95年にデイトン和平合意を受け入れ、コソボ紛争では(承認はしていないものの)2008年以降の実質的なコソボ独立を許した。それにもかかわらず、セルビアはEUへの加盟から程遠い。
ボスニア紛争
ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ユーゴスラビアからのボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の独立をアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突につながった。95年にデイトン和平合意によって終結。
「クライナの嵐作戦」
セルビア人勢力がクロアチア領内で91年に樹立を宣言したクライナ・セルビア人共和国に対し、95年8月にクロアチア軍が仕掛けた軍事攻撃。クライナ・セルビア人共和国はこの攻撃により消滅した。