9月10日召集の臨時国会の最中であり、代表質問の当日、所信表明から2日後、アメリカのブッシュ大統領にインド洋での給油継続を公約して4日後の辞意表明に驚かされた。これほどの背信行為、敵前逃亡、最悪のタイミングはなかろう。まさに舞台は暗転した。
代わって登場したのは、「ポスト安倍」の一番手と見られた麻生太郎氏ではなく、福田康夫氏だった。71歳での首相就任。自由民主党は、党首に若さや選挙の顔でなく、経験と安定性を選択した。
しかし、国会での「衆参逆転現象」が解消されたわけではなく、福田首相の政権運営もまた多難が予想される。(文中肩書は当時)
安倍政権の最後は空中分解
安倍首相は就任時には2期6年の長期政権と見られていた。「戦後レジームからの脱却」や「美しい国、日本」を高らかに掲げ、憲法改正を提起したのは、長期政権を見越してのことだった。それが意外にも、わずか1年での交代となった。安倍首相自身が9月12日の記者会見で、退陣の直接の原因として挙げたのは、テロ対策特別措置法案に関連して、「民主党の小沢一郎代表に党首会談を申し入れたが断られた」ことだったが、名指しされた小沢代表は、「国対委員長会談で党首会談の打診はあったが、正式な申し入れはなかった」と、辞任理由の根拠薄弱さを指摘した。
与謝野馨官房長官は、深刻な健康問題があったことを明かした。事実、翌13日には慶応病院に入院した。
安倍首相は9月23日に病院で記者会見し、「本当の辞任理由は健康問題」だったことを認めたが、説明不足もまた不信を増幅させた。
安倍首相の出処進退について、総裁選挙中に福田氏は次のように指摘した。
「決断の時期を間違えたと思う。参院選に負けたときが決断の時期ではなかったか」
福田氏は「本当に苦しい道を歩む覚悟がなければ、続ける決断をしてはいけない」とも付け加えた。続投決断で失敗し、政権維持の断念でも過ちを犯したというわけだ。
退陣表明に先立つ内閣改造(8月27日)は、その直後の内閣支持率が10ポイント程度回復したことから見て、改造それ自体としては成功したかに見えた。
しかし、遠藤武彦農林水産相が農業共済組合問題に絡んで、9月3日にスピード辞任となったことで元の木阿弥となった。
さらに安倍退陣の遠因を挙げれば、若さや経験不足からくる政治技術の未熟さ、人事のお粗末さなど、構造的なぜい弱性も浮かび上がる。
イタリアの政治哲学者マキアベリは、指導者(君主)が「ライオンのどう猛さとキツネの狡猾さを併せ持つ必要がある」と指摘しているが、 これらの資質を欠く安倍前首相は、ついに刀折れ矢尽きた。
「ポスト安倍」をうかがう麻生氏の誤算
こうして自民党は、いきなり 総裁選に突入した。そこで「ポスト安倍」をうかがう最右翼にいたのが麻生太郎氏だった。そもそも参議院選挙の投票日当日、麻生氏が安倍氏から協力を求められたとき、いち早く続投を支持したのは政権禅譲を狙ってのことだった。
しかし、ここで最初の誤算は、安倍氏自身からの後継指名がなかったことだ。逆に、党内では「安倍さんは『麻生にだまされた』と言っている」という、真偽定かでない情報が流され、情報戦でも受け身に立たされた。
麻生氏の第二の誤算は、幹事長という党内ナンバー2の地位を占めていれば、総裁選では圧倒的優位に立てると踏んでいたが、在任が短すぎた。
もう一つの誤算は、派閥の力の軽視だ。小泉・安倍時代を通じて派閥の人事推薦権は有名無実化した。総裁選での集票機能も決定的に低下していると見て、派閥への働き掛けという発想がなく、その間に福田氏に「麻生包囲網」を作り上げられてしまった。
派閥根回しで福田氏が優勢に
小泉・安倍時代に不遇をかこっていたベテラン議員の中から、急速に福田康夫氏擁立の動きが本格化したのは、退陣表明翌日の9月13日からだった。福田氏は、まず自らの所属する町村派の長老・森喜朗元首相や、同派会長の町村信孝外相と接触して、町村派からの支持を取り付けた。
その足で、谷垣派の谷垣禎一会長、津島派の津島雄二会長、古賀派の古賀誠会長と会談して、協力約束をもらった。出馬に意欲を示していた津島派の額賀福志郎氏らが、相次いで出馬を断念するとともに福田支持に回った。結局、9派閥のうち8派閥が福田氏支持を決め、福田氏優勢の流れが一夜にして出来上がった。
9月23日開票の総裁選の結果は、福田氏が330票で、麻生氏の197票を抑えて大差で勝った。ただ、麻生氏は地方票ではかなり肉薄し、議員票でも132票を得て善戦した。
党4役体制、「居抜き内閣」
福田新総裁は9月24日、まず党3役人事を行い、党運営の要である幹事長に伊吹派会長の伊吹文明氏を、政調会長に谷垣派会長の谷垣禎一氏をそれぞれ起用し、総務会長に二階派会長の二階俊博氏を再任した。総務会長には当初、古賀誠氏に就任を要請したが、古賀氏は総選挙を取り仕切る選挙対策総局長を希望。福田首相は選対総局長を選挙対策委員長に改称したうえで、党3役と同格とした。いわば「党4役体制」となった。
翌25日には首相指名選挙が行われ、衆議院では圧倒的多数で福田康夫氏が指名されたが、与野党逆転の参議院では、決選投票で小沢一郎氏が首相に指名された。衆参で異なる指名は戦後4回目。
9年ぶりに開かれた両院協議会を経て、衆院での指名が参院での指名に優越する(憲法67条)ため、福田氏が第91代(歴代で58人目)の首相に選出された。
福田首相は直ちに組閣に取り掛かり、内閣の要である官房長官に町村信孝外相を横滑りさせたほか、後任外相に高村正彦防衛相を起用。17閣僚のうち13閣僚を再任した。初入閣は渡海紀三朗文部科学相だけ。再入閣も石破茂防衛相だけだった。
臨時国会の最中であるためで、「居抜き内閣」とか「上書き保存内閣」とも評された。
党・内閣を通じて派閥への配慮をにじませたのが特徴で、入閣を断った麻生太郎氏の麻生派を除けば「派閥全員参加」型の政権となった。
新内閣発足直後の世論調査で、福田内閣支持率は57.8%(共同通信調査)。1991年の宮沢内閣以降で比べると、小泉、細川、安倍、橋本各内閣に次ぐ5番目に高い支持率だ。政権としては順調な離陸を果たしたと言える。
しかし、「衆参ねじれ現象」という厳しい国会の現実には変わりがない。民主党の小沢代表は、政府・与党に衆院解散・総選挙を求める構えを崩していない。
これに対し福田首相は、民主党との話し合いでしのぐ作戦だ。最大の懸案であるテロ対策特別措置法の扱いについても、民主党と渡りをつけたい考えだが、民主党がそれに乗ってくるかは依然、未知数で、臨時国会乗り切りが最初の関門となる。