ヤン ヨンヒ監督の映画『スープとイデオロギー』(公式HPはこちら)をめぐる対談1に続き、今回は「済州島四・三事件」に関わり、日本に脱出してきた詩人の金時鐘(キム シジョン)氏。来日からこれまで70年以上にわたり、日本語で詩作を続けてきた。事件については、2001年に刊行された小説家・金石範(キム ソクポム)氏との対談『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社)までほとんど語ることはなかった。
監督のヤン氏はこれまでも、ドキュメンタリー映画『ディア・ピョンヤン』(2005年)、フィクション映画『かぞくのくに』(2012年)などで、自身の家族を通して、朝鮮半島と日本の歴史、それらに翻弄されながら生きる在日コリアンの姿を捉えてきた。
今作は、ヤン氏の母を主人公に据えた、これまでの「家族」の物語に連なるドキュメンタリーである。作品の冒頭で母の口から語られるのは「済州島四・三事件」の記憶。当時、18歳の彼女は事件の体験者であったことを語り始め、娘も知らなかった母の人生が明かされてゆく。
ヤン氏は、自身の母と同じ事件の当事者で、「自分の来し方を振り返るとき、『四・三事件』の無残な体験が私の人生の大きい比重を占めている」(『朝鮮と日本に生きる―済州島から猪飼野へ』(岩波新書、2015年)と回想記に記す金氏が、母の体験をどう受けとめるのか知りたかったという。
歴史のしがらみから逃れられない
ヤン ヨンヒ(以下、ヤン) お会いしてお話しするのが初めてでして、緊張しています。
金時鐘(以下、金) あなたのお父さんのヤン コンソンさんとは民戦(在日朝鮮統一民主戦線。朝鮮総連の前身にあたる)のときからずっと一緒でしたよ。
ヤン うちのアボジ(父)が先生に失礼なこと言ってませんでしたか?
金 朝鮮総連は僕を許せないと批判してきたけど、あなたのお父さんは僕にきついこと言ったことはなかったよ。まぁ、お人よしと言っていいのかわからないけど。70年代初頭までは総連の体育協会の会長をやられていたんだよね?
ヤン そうです。
金 実はお父さん、ぼくのある集会の会場にたずねてきたことあるんよ。それは、あなたの話だったんですよ。「娘が映画撮っているから、時鐘トンム、ちょっと力貸してもらえんか」 って言って。
ヤン えっ! 私には「芸術をしたければ帰国しろ!」と言ってたんですよ。
金 帰国って北にか?
ヤン そうです。それで私が、「頭おかしいんちゃうか! 息子3人も行かせて、まだ懲りひんのか!」とか父に言って、大喧嘩になってた(笑)。
金 お父さんと会ったときに「うちの娘、映画作るのを頑張っておるから、頼むわ」と言われた。僕は「私は詩人ですから、できることが何かあるとすれば、新聞で映画についての記事を書くとかなら、できるかもしれませんが」って答えたよ。お父さんは「もうあの子は、どないして生きていくんかな」言ってたわ(笑)。ヨンヒさんのこと、心配してたんだよ。
ヤン 驚きです。初めて聞きました。
金 お父さんは、大阪を代表する総連の重鎮です。対して僕は、総連の批判の矢面に立たされていた男です。お互いに会っても、何か表立って話すことはできなかった。ただ、冠婚葬祭なんかで否応なしに一緒に席を持つときはあって、そういうときに会うと気さくな人でしたよ。わざわざ大っぴらにやって来て、「時鐘トンム、元気か?」言うて(笑)。
ヤン 全然知りませんでした。
済州島四・三事件
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金石範(キム ソクポム)
1925年生まれ。「鴉の死」(1957)以来、済州島四・三事件を書きつづけ、1万1000枚の大長編『火山島』(1976~97年〉を完成。小説集に、『鴉の死』(新装版1971年)、『万徳幽霊奇譚』(1971年)、『1945年夏』(1974年)、『幽冥の肖像』(1982年)、『夢、草探し』(1995年)、『海の底から、地の底から』(2000年)、『満月』(2001年)、『地底の太陽』(2006年)、『海の底から』(2020年)、『満月の下の赤い海』(2022年7月刊行予定)など。評論集に『在日の思想』、『金石範評論集1 文学・言語論』(2019年)などがある。四・三事件に関して詩人の金時鐘氏と対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(増補版2015年)がある。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
南朝鮮労働党(南労党)
1946年11月、朝鮮共産党・南朝鮮新民党・朝鮮人民党が合党し結成された。委員長許憲。46年8月の北朝鮮共産党と朝鮮新民党の合党による北朝鮮労働党結成の影響を受け、南朝鮮でも民主陣営を強化すべく呂運亭により3党合党が提起された。しかし共産党の路線転換とも重なり、方針をめぐって3党それぞれが2派に分裂、朴憲永ら左派グループは南朝鮮労働党結成を、呂運亭ら慎重派は社会労働党結成を推進した。呂運亭らは再三提案を行なったが、米軍政の弾圧激化、北朝鮮労働党の支持などにより、慎重派を排除したまま朴憲永中心に南労党が結成された。この結果、南労党は左右合作の可能性を排し米軍政に対抗する階級政党の性格を強く帯びることとなった。当初は米ソ共同委員会に大きな期待をかけていたが、その決裂後は米軍政による激しい弾圧を受け地下化、単独選挙に反対する実力闘争を展開した(5・10総選挙)。49年6月に北朝鮮労働党と合党、朝鮮労働党となる。(『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店)より)
民団(在日本大韓民国民団)
大韓民国を支持する在日朝鮮人の団体。1946年、左派の在日本朝鮮人連盟に対抗し、自由主義派・保守派が在日本朝鮮居留民団を結成、48年大韓民国樹立に伴い在日本大韓民国居留民団と改称。94年現名称となる。(『広辞苑 第6版』(岩波書店)より)