戦後最大の転換期を迎えた日本政治
自由民主党から民主党への政権交代が遂に実現し、民主党政権が誕生した。日本政治は戦後最大の転換期を迎えた。2009年8月30日の衆議院議員総選挙の結果は、民主党が308議席の地滑り的勝利を博し、9月16日に鳩山由紀夫首相が誕生。民主党は1996年の結党から13年で政権にたどり着いた。総選挙を通じた与野党間の政権交代は戦後、47年と93年の2回あるが、新与党が過半数を取っての交代は初めてだ。自民党が政権の座から降りたのは55年の結党以来、2度目となる。
前回は急ごしらえの細川護熙政権・羽田孜政権がわずか計10カ月で崩壊したため、自民党が社会党、新党さきがけと連立を組んで政権に復帰できたが、今回はめどが立たない厳しい状況だ。しかし、民主党は初めて政権を握っただけに政権運営に不慣れな点は否めない。まして「脱官僚依存」政治を掲げているだけに、官僚との摩擦は避けられず、平坦な政権運営とはなりそうにない。
民主党獲得議席「308」の衝撃
それにしても民主党の勝ちっぷりは凄まじいものがあった。民主党の獲得議席「308」は、自民党の小泉純一郎首相(総裁)が前回2005年の「郵政総選挙」で得た296議席を上回り、中曽根康弘首相(総裁)が1986年の衆参同日選挙で獲得した過去最大議席数300をもしのいだ。民主党は300小選挙区で221人を当選させた。自民党・民主党の直接対決に限っていえば、民主党の213勝46敗だった。民主党は比例代表でも87人が当選。近畿ブロックでは名簿候補不足で2議席を他党に譲ったほどだ。選挙前勢力と比べて一気に193人も増やして計308人とした。単独で過半数を上回ったばかりでなく、委員長ポストを独占したうえで委員の過半数を握って国会運営の主導権を発揮できる「絶対安定多数」の269議席も大幅に上回った。
これに対し自民党は小選挙区で、選挙前の226人から大幅に減らして全体の約5分の1、64人しか当選させられず、比例代表の55人を加えても計119人と、選挙前から一気に181人減らした。過去最低だった93年の223議席を下回り、選挙前勢力から一挙に約3分の1まで縮小する歴史的な惨敗。93年に政権を失ったときも比較第1党の地位は維持していたが、今回は55年の結党以来、初めて第2党に転落した。
与党ベテラン議員が相次いで落選
個別候補では、海部俊樹元首相が議席を失った。首相経験者の落選としては63年総選挙での石橋湛山、片山哲両元首相に次ぐ3例目。このほか山崎拓前党副総裁、笹川堯党総務会長や閣僚・党3役経験者が相次いで落選した。現職閣僚は全員当選したものの、派閥の領袖クラスも含めて小選挙区で1位になれず、比例代表で復活した者も多かった。同じ連立与党を組んでいた公明党は、小選挙区で8人全員が落選、比例代表のみの21人(選挙前比10人減)にとどまった。太田昭宏党代表、北側一雄党幹事長、冬柴鉄三前国土交通相が落選の憂き目に遭う大敗だった。
得票数でみても民主党の躍進は著しい。小選挙区で前回は自民党3252万票、民主党2480万票だったのに対し、今回は自民党が2730万票と約500万票減らし、民主党は3348万票と約900万票増やした。比例代表でも民主党が約1000万票伸ばしたのに対し、自民党は約500万票失った。小選挙区の得票率でみると民主党47%に対し自民党39%の差だが、これが議席率になると民主党74%対自民党21%と、極端な差になる。これが小選挙区制の顕著な効果だ。
解散のチャンスを逃した麻生自民党
ここまで自民党が惨敗した理由は何か。2008年9月、「選挙の顔」として選ばれた麻生太郎前首相にとって最大の使命は、衆議院解散・総選挙を早期に実施することだったが、案に相違して解散先送りを繰り返した。さかのぼって考えると、麻生前首相が逃した解散チャンスは2度あった。第一の機会は就任直後の08年10月だった。しかし、(1)発足直後の内閣支持率がそれほど高くなかった、(2)独自の世論調査で自民党の過半数割れが予測された、(3)リーマン・ブラザーズ破綻に伴う世界不況への対応が必要になった、などの理由から見送られた。
その後、定額給付金をめぐり、所得制限を課すかどうかで麻生前首相の発言は二転三転。「高額所得者が受け取るのはさもしい」「矜持の問題だ」としていたのに、最終的には高額所得者である自らも受け取るなど、発言と行動が大きくぶれた。
郵政民営化について「私は民営化に賛成じゃなかった。濡れ衣を着せられると、俺もはなはだ面白くない」と発言し、小泉純一郎元首相ら改革派から反発されて前言を修正した。相次ぐ麻生氏自身の失言が内閣支持率の低下をもたらした。極め付きは09年2月、中川昭一元財務相がローマでのG7財務相会議後の「もうろう記者会見」で辞任に至り、内閣の大きな打撃となった。
第二の機会は、同年3月、小沢一郎代表の公設第一秘書が政治資金規正法違反の容疑で東京地検に逮捕されたときだ。このときも麻生前首相は、景気対策のための09年度予算案と、同補正予算案の早期成立の姿勢を変えなかった。5月連休明けに民主党は小沢一郎氏から鳩山由紀夫氏に党首交代して総選挙への態勢を立て直し、麻生氏は好機を逃す結果となった。
最終的に解散に打って出たのは自民党が惨敗した東京都議会選挙とイタリア・サミットが終わった後の7月18日だった。内閣支持率は20%近くまで低下し、景気対策への評価も得られなかった。
05年総選挙での大勝は「小泉構造改革」が支持された結果だったが、それが逆に足かせにもなった。市場万能主義、グローバリズムの徹底は、すでに小泉時代の末期から所得格差や中央と地方の格差など多くの問題を引き起こしていたが、後継の安倍晋三政権、福田康夫政権がともに任期途中に内閣を投げ出すなど、政権運営に対する意思と能力が大幅に低下していた。麻生政権はそれを倍加させて総選挙を迎えたわけで、大敗は必然的な結果でもあった。
(後編へ続く)