世界に激震、「アラル海消滅」のニュース
14年10月、かつて世界第4位の面積を誇った中央アジアのアラル海が「ほぼ消滅」した、あるいは「消滅」したというニュースが飛び交った。10月1日付でCNNが「世界で4番目に広かった湖『アラル海』、ほぼ消滅」と報じ、それを受ける形で日本の新聞各紙もアラル海の現状についてこぞって報道した。毎日新聞に至っては10月2日、「アラル海:巨大湖消えた 世界で4番目」と、記事の見出しでは「ほぼ」を取り、単に「消えた」と報じている(ただし、記事本文では「ほぼ消滅したとみられる」としている)。これら報道の後、筆者はNPO日本ウズベキスタン協会主催のシンポジウム「アラル海消滅:私は見た、調査した」(14年11月19日、東京都千代田区)にパネリストとして参加する機会を得た。ここでも「消滅」という言葉が用いられている。このアラル海「消滅」に関するニュースの元情報となっているのが、アメリカ航空宇宙局(NASA)による同年9月26日付の衛星画像解析レポートである。そのタイトルは「アラル海、その東側部分を失う(The Aral Sea Loses Its Eastern Lobe)」。あくまで「アラル海の東側部分の消失」である。
確かに、アラル海の表面積が最大であった1960年と比較して、現在ではその10分の1ほどにまで縮小しているが、それをもってアラル海が「消滅」したと言ってよいものだろうか。カザフスタンとウズベキスタンのアラル海の現場で見聞きしたことを踏まえながら考えてみたい。
アラル海が「消滅」したといわれるまで
そもそもなぜアラル海は「消滅」と言われるまでに縮小してしまったのだろうか? アラル海には北東部にシルダリヤ川、南部にアムダリヤ川という二つの河川が注ぐのみでアラル海から流出する河川はない。アラル海の水位低下の直接的な原因は、アラル海への流入水量をアラル海からの蒸発水量が大幅に上回ったことである。それをもたらしたのは、ソ連時代の乾燥地での農地拡大に伴う灌漑水量の増加と水資源の非効率的な利用だった。アラル海流域の気候や土壌の条件は綿花栽培に適していたが、それには多量の灌漑用水を必要とした。19世紀後半、ロシア帝国の植民地時代から綿花栽培の重要性は認識されていたが、それが「自然改造」という開発理念の下で本格化したのがソ連時代、特に第二次世界大戦後だった。アラル海の縮小については、その変化の規模とスピードから視覚に訴えやすく、ソ連時代末期から今日に至るまでセンセーショナルに語られてきた。しかし、アラル海の縮小により起きたのは砂漠化や動物相の壊滅などの環境悪化だけではない。アラル海周辺地域およびアラル海に浮かぶ島々には、漁民、牧畜民、魚肉加工場の労働者とその家族を中心として多くの人が住んでいたのである。70年代後半には、湖水の塩分濃度の上昇に伴って漁業資源が激減したことでまずアラル海の漁業が壊滅し、多くの住民がアラル海周辺地域から移住した。80年代前半には、干上がった湖底から塩類を含む砂塵嵐がアラル海周辺地域を襲い、農業排水に含まれる農薬・化学肥料の残留物が混入した飲用水汚染の深刻化と相まって、住民の間で呼吸器疾患や内臓疾患が蔓延(まんえん)した。90年代前半は、カザフスタンとウズベキスタンの独立、社会主義経済体制からの移行に伴う経済危機により、アラル海周辺地域では特に都市部の社会・経済が疲弊した。ソ連時代、カザフスタンのアラリスク市とウズベキスタンのムイナク市では巨大な魚肉加工場が稼働し、アラル海での漁獲がなくなった後も日本海などから冷凍魚を搬送して加工に供していたが、91年のソ連の解体とともにそれも立ち行かなくなった。
アラル海の縮小が深刻化した結果、89年には南北のアラル海が分離し、北側が小アラル海、南側の大きな部分が大アラル海と呼ばれるようになった。シルダリヤ川が流入する小アラル海だけでも維持しようと、ソ連解体直後の92年夏にカザフスタンの地元住民の手で土盛りの堤防が建設された。幾度かの流出・再建を経て、2005年に世界銀行の支援により水量調整機能を伴う近代的なコクアラル堤防が建設された。
小アラル海の水位は回復!
それでは、カザフスタン領に属する小アラル海の現状はどうなっているのだろうか。コクアラル堤防が建設されてから、小アラル海の水位は安定し、塩分濃度は低下している。06年春には小アラル海が計画水位に達し、今ではコクアラル堤防の水門が開かれて大アラル海に向けて余剰水が排出されている。つまり、シルダリヤ川から安定した水量が流入している。とはいえ、コクアラル堤防で維持できる水位は標高ベースで海抜42メートルに過ぎず、1960年の海抜53メートルにはほど遠い。ただし、水位が海抜30メートルを記録した2000年代前半に比べれば、湖水位と表面積が「回復した」、より正確にいうと、現地社会・国家・国際社会の努力により「回復させられた」ことは間違いない。現地の人々は小アラル海については「消滅」したとは思っていないし、「消滅」という言葉を聞けば気を悪くするだろう。現在は、塩分濃度の低下によりかつてアラル海に生息していた多くの魚が戻ってきた。シルダリヤ川デルタ地域にある二つの養魚場で稚魚が育てられ、シルダリヤ川に放流されており、それがアラル海に根づいたのである。河口付近の魚の産卵に適するヨシ原も回復しつつある。産業としての漁業も復興している。アラル海周辺の農村住民にとって漁業は追加の収入源であり、都市住民にとっては新たな雇用機会を生んでいる。アラリスク、カザリンスクという中核都市ではISO認証やEU輸出認証を取得し、先端技術を導入した魚肉加工場が稼働している。スズキのフィレを中心にドイツ、ポーランド、ロシア、ジョージア(旧称グルジア)などにアラル海産の魚が輸出されている。
小アラル海の東側にある都市部から西部にある小さな村々へのアクセスは悪い。道路は舗装されておらず、でこぼこだらけ、たどり着くのも一苦労である。しかし、村に近づくとまるで蜃気楼(しんきろう)のように真新しい住居や学校が目に飛び込んでくる。1980年前後にアラル海漁業が廃れてから、ソ連時代末期、村にとどまった漁業従事者の多くは牧畜業に転業し、国家もそれを後押しする政策をとった。ラクダと馬が主要家畜である。ラクダは、砂漠での飼養に適しているだけでなく、肉・乳・毛すべて売ることができる。90年代のソフホーズ(ソ連時代の大規模国営農場)の解体時は家畜の私有化をめぐって揉めたというが、今では農業企業が生産から販売まで一括管理し、村人も牧畜だけで生活できるまでに回復している。