「20世紀最悪の環境破壊」と言われつつも、綿花栽培の地域など、それによって恩恵を受けた地域もあるのだと。主人公の日本人少女ナツキにも「何がいいのかわからない」というセリフを言わせている。
宮内 はい、私はどちらかといえば、不可知論的な見方をするほうです。
地田 そこなんですよ。人間の生み出す技術なんて全然確実なものではないのに、なぜか確実なものと思われる。一方で、遊牧は遊牧なりにエコロジカルで確実に思えるけれど、塩害や雪害には弱く、不確実性を抱えている。そう考えると、技術と遊牧は、対置しているように見えて実は根っこは同じなんですね。人間というのは常にその両面を抱えている。アラル海の物語というのは、まさにそれがテーマなんだろうなと思うんです。この小説は、今ある人間社会の矛盾そのものの縮図を描いているんだろうなという気がして、僕は「ああ!」とすごく納得がいったんです。
宮内 ありがとうございます。付け加えますと、この小説の裏テーマの一つは、「自分たちの力で世界を変えてみたい」という欲望との戦いです。主人公の少女たちは期せずして権力側に立ってしまうわけですが、そうなると自ずと保守としての思考をしなければならない。その上でどうしていくか。かつて人間によって根本から変えられてしまったアラルという場所に立って、彼女たちは、自分たちで抜本的にものごとを変えてしまいたいという欲望に抗えるのかどうか、それが裏テーマの一つになっています。
中央アジアと「国家」
地田 物語の中盤で、主人公の一人の少女アイシャに、「国体と信仰、そして人権の三権分立を確立したい」と言わせていますね。「国体の暴走を人権が制限する。そして人権の暴走を信仰が制限する。さらには信仰の暴走を国体が制限する。この三竦みを制度化する」ということと。この発想って、非常に中央アジア的ですよね。
遊牧民族は、いわゆる国としての体裁みたいなものはあやふやなので、国として一つに人々をまとめ上げるために為政者は「国体」を強調せざるを得ない。
「人権」というのは、この地域ではある種の直接民主主義のことなのかなと思う。遊牧民には基本的に直接民主主義の伝統があって、特にかつてのトルクメニスタンには、ヘッドを作らないとか、合議で決めるといった文化があった。とすると、ある種の国体が暴走し始めたら、それに歯止めをかけるのが人権の部分なのかなと思ったのです。
でも、その人々の総意や直接民主主義的なものって万能じゃないから、そこが暴走したとき、どこに立ち返るかといえば、「信仰」――スーフィズム、神秘主義的な神との合一であり、そういう宗教的なものがこの暴走を止め得るスピリチュアルな部分なのかなと思いました。この三つが鼎立しうるというのは、すごく中央アジア的な発想なんじゃないかなと。
宮内 今、スーフィズムを交えて、ふんわりと説明してくださって助かりました。無理な制度化は望ましくないにせよ、そういった形が自然に生まれるようなものであれば、もしかしたらある種の理想かもしれないと思います。
地田 しかし、一歩間違えて暴走が始まると、僕はトルクメニスタンのニヤゾフ政権みたいな超超ハイパー独裁になる危険もはらんでいるとは思います(笑)。
宮内 この国体と人権と宗教がそれぞれ補い合う面はもちろんあるとして、侵害し合う面も多いと常々考えておりまして。だったらいっそ、その三つをジャンケン的に三すくみにしてはどうかと考えた。ちょっとゲーム理論的な発想なんですけれど。ただ、この制度化は限りなく難しいし、現実化したとしても、行き着く先はディストピアになるんじゃないかと……(笑)。
アラルを旅した二人の今後
地田 アラルの物語の次は、宮内さんはどこに行かれるんですか?
宮内 アラル海のことはこの小説で書ききった感がありますので、今はフィリピンに密着しまして、歴史の要素も取り入れて、人間のある種の縦のつながりのようなものを深掘っていく小説を構想しています。ただ、今回取り組んだ、国とは何かというテーマも引き継がれていきます。ただ、いずれまたアラル海へ帰ってくる可能性はもちろんあります。
地田 そうですか。私としては、「20世紀最悪の環境破壊」と言われながらも、ここまで復興フェーズに持ってこられたアラルの地域を、これからも観察し続けたいと思っています。その持続可能性がどうあるべきなのか、現地の人と対話しながら考えていくというのがこれからの仕事になってくるのかなという気はしています。宮内さんの新しい挑戦、楽しみにしています。
スーフィズム
イスラム教における神秘主義哲学のこと。
ニヤゾフ
1940~2006年。トルクメニスタン初代大統領。