2011年3月11日の東日本大震災後に起きた、東京電力福島第一原子力発電所事故。廃棄物の中間管理地、避難者への住宅手当の打ち切りなど、いまだ多くの問題が山積し、訴訟も数多く行われている。13年3月11日、弁護士団が800人の原告とともに、東京電力と国を相手方として提訴した「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟もその一つだ。請求内容は事故による放射能汚染のない状況に戻すことと、もとに戻るまでの慰謝料である。この裁判は「筋を通す」ことを主眼としており、日本社会にとって大きな意義があるとする政治学者の白井聡氏が、その意義について詳しく解説する。
原発事故訴訟でも最大規模の「生業訴訟」
「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟(通称「生業訴訟」)は、2013年3月11日に福島地方裁判所にて提訴が行われ、16年11月4日の時点で21回の期日(裁判の開廷)が行われており、17年3月に結審の見込みである。
11年3月11日の東日本大震災に伴って起きた東京電力福島第一原子力発電所の事故をめぐっては、多数の訴訟が提起されている。16年3月6日の「毎日新聞」の報道によれば避難者らが東電や国を相手取り慰謝料など損害賠償を求めている集団訴訟が、18都道府県の20地裁・支部で31件に上る。原告総数は1万2539人、請求総額は少なくとも1132億円に上るという。
これら直接の事故被害者たちによる訴訟のほかに、東電の個人株主が勝俣恒久元会長ら現・元の取締役27人を相手取った「東電株主代表訴訟」は、経営陣が東電に与えた損害額として9兆482億円を請求している。また、12年3月に結成された福島原発告訴団は、東電の元幹部、原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長や委員ら約30人を刑事告訴した。これに対し、13年9月に検察は不起訴としたが、検察審査会の議決を経て、16年2月、勝俣元会長、武藤栄、武黒一郎両元副社長が強制起訴されるに至っている。罪状は業務上過失致死傷などである。諸々の訴訟の過程で、事故発生に至らしめた東電の不作為、すなわち大津波対策の必要性を認識していながらコストを優先してその実行を怠った事実があらためて明らかにされ、「想定外であった」という東電の主張を破綻に追い込みつつあるなど、あの事故をめぐる事実が訴訟によって掘り起こされている。
さらには、福島第一原発事故を受けて、各地での原発運転差し止め訴訟等の動きも活発化している。16年3月には、関西電力高浜原発3・4号機(福井県高浜町)の再稼働差し止めをめぐる訴訟で大津地裁が運転停止の仮処分を決定したことは、記憶に新しい。
このように、あの事故の発生以来、司法の場を通じて原発の是非を問う動きが、全国で巻き起こっていると言える。そのなかで、生業訴訟原告団は、福島県の全自治体の住民を含む約4000人に上るものであり、数ある訴訟団のうちで最大規模のものとなっている。
生業訴訟の要求は「原状回復」
生業訴訟の特徴は、原告団の規模の大きさだけにとどまらない。その最たる特徴は、生じてしまった被害に対する賠償を求めるだけでなく、「原状回復」を要求しているところにあるのだが、この要求の重要性を理解するためには、原子力事故における賠償の法的枠組みの特殊性を見ておかなければならない。
現在、原子力事故による損害が発生した場合、それへの賠償は「原子力損害の賠償に関する法律」(通称「原賠法」)を法的根拠として行われている。同法の特徴は、「無過失責任主義」を取っているところにあるが、それは、通常の民法の原則と異なって、原子力事業者は損害が生じたときには過失の有無にかかわらず賠償しなければならないことを意味する。一見したところ、この原則は、被害者の救済を企図した良心的なものに見えるかもしれない。
しかしながら、この原則は、実は原発推進政策と一体のものである。原賠法第一章第一条は、次のように定めている。「この法律は、原子炉の運転等により原子力損害が生じた場合における損害賠償に関する基本的制度を定め、もつて被害者の保護を図り、及び原子力事業の健全な発達に資することを目的とする」。“原子力事業の健全な発達に資する”、つまり、同法の精神そのものに原発推進の意図が盛り込まれているのである。このことを踏まえれば、「無過失責任主義」の原則も、単に原子力事業者が誠実に被害の救済に取り組むことを義務づけられる、ということではないことがわかる。あけすけに言えばそれは、「損害が生じた場合、過失責任について四の五の言わずにカネは払ってやるから、原発を推進する方針は決して揺るがない」という原則にほかならない。
このことが福島第一原発事故の被害に対する賠償請求において持つ意味は、大きい。すなわち、原賠法の枠組みに依拠して訴訟を提起する限り、仮に原告が全面的勝利を得たとしても、そのことは原発推進という国策には何らの影響をも及ぼさないことを意味する。また、「無過失責任主義」の原則から、原賠法の枠組みにおいては、誰にどのような過失があったのかは、検証不要のものとなってしまう。
言うまでもなく、福島第一原発事故は、それ以前に日本で起こった原子力事故とは比較にならない損害をもたらした。そして、原賠法はそもそもこれほど巨大な損害の発生する事故を想定してはいなかったのであり、そのことは、同法によって原子力事業者が加入を義務づけられる保険の額が1200億円であったことが裏づけている。無論、東電が受け取ったはずの1200億円は、今次の賠償にあたっては焼け石に水にすぎない。原賠法の「無過失責任主義」とは、あくまで軽微な損害にしか対応できないものであり、原発推進の是非が問われるような最高度に深刻な事態を想定していないのである。
それゆえにこそ、生業訴訟は原賠法に基づく賠償ではなく、「原状回復」を第一義的な要求としている。もちろん賠償を求めていないということではないが、それは、すでに発生した被害、現に生じている損害、将来生じうる被害に対するものと、原状回復が物理的に不可能な次元に対する代償としてである。かつ、その際の「原状」とは、放射能が飛び散る前の2011年3月10日の状態ではなく、「原発によって被害が生み出されることがない状態」を指している。それは当然、国策としての原発推進政策を撤回せよとの政治的要求へとつながり、被害を与えた張本人としての東電のみならず、日本政府を相手取ることの必然性へとつながっている。
原発推進の国策に逆らう困難
以上から生業訴訟の明らかな特徴は、「筋を通す」ことに主眼を置いているところにある。福島第一原発の事故は、その未曾有の深刻性によって、原発推進政策の合理性・道義性に対する根本的な疑義を引き起こした。しかしながら、原賠法の説明において見たように、原子力事故の発生が国策としての原発推進に影響を及ぼすことのないよう、法制度は建て付けられている。ゆえに、この事故について筋の通った責任追及を、法廷を通して行うのならば、それは原賠法の論理を超えて、あるいは同法の論理とは別の次元において、闘わなければならない。さらに言えば、こうした論理を追求しなければ、要求は単に賠償の多寡をめぐるものとならざるを得ない。そのときには、これまでの原発推進政策を支え、いまもなおそれを支えている日本国家の論理――「最後は金目でしょ」(石原伸晃環境大臣〔当時〕2014年6月16日の発言)――に屈することになる。
この国でどのように原発が推進されてきたのかに鑑みれば、国家の論理に真っ向から逆らって、政府と原子力事業者の責任を正面から認めさせることがどれほど困難なことであるかは、想像するまでもないだろう。原子力関連事業は、有無を言わさぬ国策として、硬軟取り混ぜた、もっと直截に言えば、恫喝と懐柔を取り混ぜた、カネに糸目をつけない仕方で推進されてきたのである。そこには、国是であるはずの国民主権・民主主義は一片たりとも存在してこなかったことはもちろん、佐藤栄佐久元福島県知事に対する国策捜査の件に代表されるように、それを推進してきた主体たる、政官財学メディア、文化人や芸能界にまでまたがる利権共同体(=原子力ムラ)は、巨大な犯罪シンジケートと呼ばれるにふさわしい様相を呈してきた。