かつそれは、福島の悲劇を経ても、一向に解体されていないのである。
生業訴訟は何と闘っているのか
司法の場における闘争を通じてこの状況に風穴を開けることこそ、生業訴訟の目指すものにほかならない。敵の巨大さと機構の精密さに照らしてみたとき、この闘いはドン・キホーテ的なものに見えるかもしれない。しかし、生業訴訟の原告団・弁護団が強く意識しているのは、四大公害裁判(水俣病訴訟、イタイイタイ病訴訟、新潟水俣病訴訟、四日市公害訴訟)である。福島第一原発事故が産業による環境被害と人権侵害、すなわち公害の性格を有していることは自明であろう。仮にこの国の司法において、政府と企業の不正義が公正に裁かれたことが一度たりともないのであれば、生業訴訟の試みは望みなきものであるかもしれない。
だが、四大公害裁判において、あまりに長い時間が掛かったとはいえ、原告側の主張は原則的に認められ、企業も政府も責任を取らされたのである。また、その過程で、公害問題に対する社会の認識は変化し、企業も政府も態度や政策・法制度を改めざるを得なくなった。公害の発生は、「致し方のないこと」から「あってはならないこと」へと、社会常識のなかでの位置づけが変わった。これと同様に、生業訴訟は「未来の常識」を創り出すことを視野に入れて闘われているのである。
そして、以上から明らかなように、原子力の領域において国策を覆すことは、単に産業政策やエネルギー政策において日本国家に大きな政策転換をさせるということのみを意味するのではない。すでに述べたように、日本の原発推進政策の特徴はその非民主制・強権性にあり、それはそのまま戦後民主主義の表層性・虚妄性の何にも増して明白な表れである。権威に盲従する卑屈さと合理的な批判に耳を貸さない傲慢さの「ワースト・ミックス」は、この国のあらゆる領域の権力を蝕み、致命的な無能へと結晶することによって、今次の原子力惨事へと帰結した。
いまわれわれがあらゆる社会領域で目撃しているのは、戦後「民主主義」社会の悲惨な実態であり、したがって、火急の課題としてせり上がってきているのは、一種の民主主義革命である。生業訴訟は、この課題の最前線に立つものにほかならない。
生業訴訟の戦術
それでは、生業訴訟はいかなる方法によって、この険しい闘いを勝利へと導こうとしているのだろうか。一介の政治学者にすぎない筆者が、そもそもなぜこの訴訟に関わっているのかを説明することによって、原告団・弁護団の闘い方の一端が見えてくる。
筆者がこの訴訟の存在を知り、応援団のような役割を買って出ることになったきっかけは、訴訟の期日に行われる原告団向けの講演会の講師役を依頼されたことであった。本訴訟の原告は多数に上るため、裁判の開廷日には、傍聴席を得られない原告が多数出てしまう。その日の法廷が終わるまでの時間を生かして、裁判所に入れない原告の人々向けに講演を行うという企画を生業訴訟は毎回の期日において行っているが、その目的は、本訴訟の意義に対する理解をさまざまな角度から深めることで、士気を高め、さらなる闘争のアイディアを膨らませる、というところにあるのであろう。筆者の場合、持論である「永続敗戦」の概念を説明し、それに規定された支配体制との闘いとして生業訴訟が闘われているという趣旨の話をさせていただいた。
生業訴訟の戦術の顕著な特徴は、こうした知識人・文化人との連携を含め、裁判闘争を狭義の法廷から社会へ向けて押し開き、市民社会を広範に巻き込んで行こうとする姿勢である。原告団・弁護団ホームページには次のような言葉が見出される。「判決を出すのは裁判官です。彼らは同時に国家公務員でもあります。いわば雇い主である国を断罪する判決を書くことは、公務員にとって決してたやすいことではありません。これを後押しするのが原告の声、そして国民世論です。『この裁判の判決を日本中が注目している』そう思うからこそ、彼らは正義を貫けます。『あなたたちを見殺しにしない、私たちがついている』という後押しがあるからこそ、彼らは『清水の舞台から飛び降りる』覚悟で、判決を書くことができるのです」。
法廷内で被告(東電と国)を完膚なきまでに論破しただけで原告の主張が認められるほど、この裁判は容易なものではない。言い換えれば、国策は軽くない。法廷の外からの圧力をも動員することによってはじめて、この訴訟の勝利の可能性が生じる。そうした試みの代表として、2016年に公開されたドキュメンタリー映画『大地を受け継ぐ』(井上淳一監督)が挙げられる。同作品は、生業訴訟原告でもある須賀川市の農家、樽川和也氏が自らの体験と思いを語った模様を映したものだ。和也氏の父、樽川久志氏は、農作物の出荷停止の指示を受けた翌日の11年3月24日、キャベツ畑で首を吊り、自ら命を絶った。和也氏の抑制された、しかし激しい憤りを伝える本作品は、原発事故とは何であるのかをあらためて突きつけるものとして、各地で観客に衝撃を与えている。
裁判の労苦を意義あるものに
こうした闘争の過程は、現代日本の腐朽した市民社会に活を入れるものでもある。生業訴訟と市民社会の関係は、訴訟が勝利のために市民社会の応援を必要としているという意味で前者が後者に一方的に依存しているのではなく、市民社会の側もまた、公正や正義、権利の擁護が行われるためには闘争が必要であることを生業訴訟から学ばなければならない、という関係にある。その意味で、生業訴訟が行う闘争は、市民社会との協働によって福島のみならず日本全国の市民社会を覚醒させうる可能性をはらんでいる。
来年、2017年に出される福島地裁の判決がどのようなものになるのであれ、本訴訟は、高裁、最高裁へと舞台を移して行くことになると思われる。長い闘いに従事する原告と弁護団の労苦は測り知れない。その労苦を意義あるものとできるか否かは、現代日本の市民社会がこの闘争からどれほど多くのものを学ぶことができるか、ということに懸かっている。原発事故の被害者として生活を破壊され、そのことに対する対応に日々追い立てられている人々が、自分の救済だけでなく、「筋を通す」ための困難な闘争にあえて立ち上がったことの重み、その行動の英雄性に応答する義務を果たすことが、福島を支援することになるだけでなく、壊死寸前のこの国の市民社会を再生へと導きうるのである。