被害者たちの生存戦略
実に、皮肉な話だと思う。
被害者の反応は「生存戦略」だと言われている。被害者から見た加害者は十中八九、自分より力がある。体格や腕力だけの話ではない。上司や取引先の相手といった、権力をもつ存在であることが多い。
抵抗や反撃が可能なシチュエーションもあるだろう。けれどそれによって、さらにひどい目に遭うかもしれない、仕事を失い路頭に迷うかもしれない、殺されるかもしれない。戦略ナシで生き延びるには、厳しい状況だ。
性暴力被害当事者として活動をする「Praise the brave」代表・八幡真弓さんは、被害に遭っている最中から、自分は相手に迎合していると自覚していた。
これはとてもめずらしいことで、ほとんどの場合、被害者は生存戦略をとりながらも、自覚がない。八幡さんは性暴力被害者を支援する仕事に長く就いており、性暴力下での被害者の反応について、豊富な知識をもっていた。
いまから約15年前、八幡さんは性被害に遭う。起業をとおして知り合った男性が、加害者だった。性的な写真・動画を撮られる、ホテルに軟禁されるなど、悪質のひと言では済まされない暴力が、長期にわたってくり返された。
「はじめは相手と、交渉をしたんです。これから起こるであろうことを、できるだけ小さく収めたい一心で。でも相手には通用せず、レイプされてしまった。その後は、性被害を“被害”と理解せず、私を責めるであろう周囲の人々に、この事実を知られてはならないと思うようになり、レイプの事実を握る加害者と決別して逃げることも不可能になりました」(八幡さん)
被害中の生存戦略は、被害者が意図して行うものではないと言われている。そしてそれは行為の前からはじまり、行為が終わってからもつづいていく。生存戦略は、“線”になっているのだ。
性暴力のような強いストレスを受けたとき、人は「友好(Friend)」「闘う(Fight)」「逃げる(Flight)」「凍りつく(Freeze)」「迎合する(Fawn)」という反応のいずれかを、ほぼ自動的に起こす。頭文字をとって「5F」と呼ばれるこれらは、アメリカの神経科学者スティーブン・W・ポージェスが1990年代に提唱したものからはじまり、現在は世界中で研究が進んでいる。
これら「5F」に関係するのが、副交感神経のひとつである「背側(はいそく)迷走神経」だ。迷走神経はいくつかの系統があり、背側迷走神経は進化の過程で最も古いタイプで、魚類や爬虫類など原始的な動物にも見られるため、「太古の迷走神経」とも呼ばれる。心拍や呼吸をゆるめ、動きを止めるなどして、命を守ろうとする。
背側迷走神経が選び取る生存戦略は“線”としてつながっている。ひとつのFがダメなら、次のFが試みられる。
「友好」とは、親しげに接して相手の好意的な反応を引き出し、これから起ころうとしている加害を回避、あるいは軽減するための行動である。八幡さんの「交渉」は、これにあたるだろう。
それでも加害行為が仕掛けられたとき、「闘う」が可能ならそうするし、それが無理なら「逃げる」を試みる。冒頭に挙げた動画では、ベンガルトラの1頭は、シベリアトラの関心が逸れている隙に小走りで場を去った。
武井弁護士が担当した事件では、体格差のある加害男性に対して、被害女性は何度も「ノー」を示している。それは女性なりの「闘う」試みだったのだと思う。
逃げられなければ、「凍りつく」=フリーズするということは、社会に認知されつつあると感じる。2023年の刑法改正で「不同意性交等罪/わいせつ罪」が創設され、「同意しない」という意思を持ち、表し、貫くことができない状態での性行為が犯罪となった。フリーズが起きることを考慮した内容だ、と評価されている。
だが、「迎合」への理解はまだ乏しい。
闘えず、逃げられず、凍りつくこともできないとき、被害を最小限にしようと、相手に従う行動をとる。性行為に“積極的に”応じているように見えるケースすらある。より苛烈な暴力を避けたい、被害時間を短くしたいなどの意図がある。
行為の後も、生存戦略は終わらない。被害者はまだ、“線”上から降りられない。
八幡さんは語る。
「最初の行為の後も、事態を悪化させたくない思いから、自分から連絡しました。こうなるともう、加害者は酷い暴力をしょっちゅう振るわなくてもいいんです。私に対してちょっとした危機感を感じさせれば、あっと言う間にフリーズをするし、迎合する。そして、きょう加害したのに、呼び出せばあしたも私が自分からやってくる……加害者にとっては楽ですよね」
傍から見れば、整合性が取れていない行動ということになるのだろう。しかし八幡さんにとっては、これもやむを得ない行動だった。
「周りに知られれば被害は終わるかもしれないし、たいへんな目に遭ったと受け止めてくれる人もいるでしょう。けれど世の中にはそうではない人も多くて、そちらに知られれば私への二次加害が起きることも考えられます。だから、隠しておきたいという一心で行動していました」(八幡さん)
事件化によって救われる人もいる一方で、公にしたくない人もいる。知られれば、人間関係や仕事、立場に大きな損失が出る。それは社会的な「死」と言っていいものではないか。八幡さんはそれを回避し、生存したかった。
「迎合しながら約半年間、自分への関心が薄れて相手がフェードアウトする日を待ちながら、継続して被害を受けました。周囲に知られることなく加害者から離れるには、それしかないと思ったんです」(八幡さん)
行為の後も、生き延びて社会生活を送るために、迎合する。どんな形で表れるかは人によるだろう。お礼メッセージを送ったり、自分から誘ってみせたり、八幡さんのように呼び出しに応じたり……。いずれにしても、やりたくてやっているわけではない。まだ“線”の上にいるから、そうしてしまう。そうせざるを得ない。
解離
性被害のような極度のストレスや恐怖に見舞われたとき、現実から心が切り離される心理的な防衛反応のこと。
