悪夢とは何か
「悪夢」とは、自分自身の生命、安全、あるいは尊厳を脅かすような極めて恐ろしい内容の夢で、恐怖のあまり途中で飛び起きて眠りが妨げられてしまうもの、覚醒後も夢の内容を生々しく鮮明に思い出すことができるものを指す。それに対し、目覚めた時に気分の悪さを感じるが、飛び起きるほどではなく、そのまま眠っていられる夢を「不安夢」という。悪夢の典型例としては「自分が殺される」などがあり、不安夢の典型例としては「追いかけられる」「電話がつながらない」「テストができない」「乗物に乗り遅れる」などがある。
夢研究の歴史
夢研究は120年ほどの歴史を持ち、フロイトの時代までさかのぼる。精神分析学的夢研究はその第1世代である。第1世代は、19世紀末まで睡眠に付随するゴミのように考えられてきた夢に、個人の世界観が反映された資料としての価値があることを見いだした。しかし夢と睡眠のメカニズムがまだ理解されていない時代であったため、夢をシンボルで解釈しようとして、神秘主義、深層心理学の方向へ偏っていった。
その後、夢研究の第2世代は、1953年の「レム睡眠」の発見からスタートする。
レムとは急速眼球運動の頭文字REM(Rapid Eye Movement)のことである。レム睡眠の時には、全身の筋肉が弛緩して、ぐったりとした状態にあるが、眼球だけが素早く動いている。一方で、脳の活動レベルは、目覚めている時に近く活発で、記憶情報を整理しながら、鮮明でストーリー性のある奇怪な夢をまとめ上げていることがわかった。
さらに夢研究の第3世代は、夢を見ているときの脳内活動を調べている。頭頂葉に損傷がある場合は夢見そのものがなくなり、前頭辺縁系に損傷がある場合には過剰に鮮明な夢見を、また側頭辺縁系に損傷がある場合には悪夢を生じやすいということがわかっている。
また、一般的には夢の記憶がはかなく、覚醒とともに雲散してしまう特徴を持つのは、レム睡眠中は記憶を固定する脳内物質の分泌が少ないからであることもわかっている。この意味で過剰に鮮明で詳細に想起(見た夢を思い出すこと)できる悪夢は、通常の夢ではなく、特殊な夢といえる。
夢はどうして見るのか
筆者は「夢」という心理生理現象を説明する際、次のような例えを使用する。就寝中の脳内は、外界からの出入りが緩やかに遮断された、レンタルビデオ店のようであり、我々の生まれてからの体験の記憶が、サブリミナル記憶も含めて、カテゴリー別にライブラリーに貯蔵されている。
レム睡眠になると自動的に脳幹網様体系が活性化し、それら記憶情報にアクセスを始める。つまり様々なカテゴリーに保存された記憶情報からDVDをいくつか引っ張り出し、合成したものが「夢」となる。通常は同じカテゴリーや類似の情報が引っ張り出されやすく、またあるところはランダムに情報が結合するため、夢の内容はストーリー性を持つが、部分的には奇怪である。
すなわち、夢とは、いわばレム睡眠中に自分の記憶をまとめ上げ、自分にしか見えない形で映画を上映しているようなものであると考えられる。であるから、夢はお告げのように外側からやってくるものではなく、自分自身の体験が素材になり、内部で生成されたものなのである。悪夢も同様である。
さらにそれら夢の素材には、その人の体験に対する意味づけが付与されている。夢の内容を認知科学的に分析すると、覚醒時の思考と夢内容(睡眠時の思考活動)には連続性があることが指摘されている。
何が悪夢の引き金となるのか?
ヒトはなぜ悪夢を見るのか。悪夢は、現実世界の中で大きなストレスとなりうる出来事を経験した時に見る。仕事上の納期や締め切りなど日常的ストレスから、進学、就職、異動、結婚など人生における大きなライフイベントまで、これらに対する失敗体験や失敗の予期が引き金となる。
大人では、失職、離婚、健康不安、死別体験などが、また子どもでは試験、試合、コンテストの失敗不安、失恋、親との不和、いじめ被害体験などが、悪夢の典型的な引き金刺激となりやすい。
悪夢は問題解決の糸口
これらの問題を整理し、心理的に乗り越え、現実世界で対処、解決できた時には悪夢を見なくなる。心理臨床の現場で、クライエント(相談者)が語る悪夢に耳を傾けていると、まるで悪夢を手がかりにして、現実の問題の解決を図って奮闘しているようである。悪夢の報告は3~4歳くらいから始まるが、3歳から8歳までの子どもは少なくとも週1回は眠りを妨げるような悪夢を覚えている。大学生では月2回程度、成人では年1~2回程度まで減少する。これは現実ストレスに対する対処能力の向上、つまり成長と関連しているためと推測されている。経験豊富な大人の場合、脳内に貯蔵された過去の情報に照らし合わせながら問題解決を図るが、時にはキャパシティーを超えた問題にぶつかることもあり、それが悪夢となって現れる。悪夢の場合、夢の中で必死にもがくが、恐怖が高まりすぎて、睡眠そのものが中断され、危険な夢の世界から強制的に目覚める。あたかも夢の処理工場が悲鳴をあげて、作業をストップさせているようである。
夢の肯定的認知から始める
悪夢を解消するには、その原因となっている問題を解決するのが一番であるが、夢の素材を効果的に利用することもできる。筆者は現実世界でうつや不安症状に悩まされやすい否定的な認知(物の見方)は、夢の中にも現れるところに着目し、夢の内容をもとに分析し、振り返ることで、夢の中の否定的認知を、別の中立的あるいは肯定的認知に変えていくことができないか検討している。
例えば「銃を持った殺人犯」が現れた時に「自分は何もなすすべがない」と考えれば、追いかけられて逃げ惑う夢になるが、「家族を守るのは自分だ」と考えが変われば、殺人犯と戦う夢になるのである。
悪夢解消の心理療法
自分の認知を客観的に分析することは難しいものであるが、夢の素材の場合は、第三者的視点で見つめることが容易になる。また現実世界で抱えているストレスを語ることには生々しさが伴い、時には開示することへの抵抗感を生ずるが、夢の内容であれば比較的語りやすい。このように悪夢は現実世界での我々の奮闘を垣間見せてくれる鏡のようなものと考えられる。
ジムグント・フロイト
Sigmund Freud
1856~1939年。オーストリアの精神分析学者。生理学の基礎の研究に取り組んでいたが、その後臨床経験を経て精神分析学を創始した。意識-無意識論、夢分析、発達理論、ストレスと防衛機制について、独自の理論を展開した。(松田英子)
レム睡眠
rapid eye movement sleep
急速眼球運動(rapid eye movement)を伴う睡眠相のこと。体の筋肉は弛緩(しかん)しているが、まぶたの下で眼球だけが激しく動き、脳波は覚醒時(目覚めているとき)と同じような睡眠の状態をいう。1950年代前半に発見され、レム(急速眼球運動)睡眠と名づけられた。それ以外の睡眠相をノンレム睡眠という。レム睡眠は個人差があるものの普段の睡眠の中では入眠から約90分周期で出現する。明け方になるほどレム睡眠が長く持続する。レム睡眠中は、脳は比較的高い活動水準にあるため、鮮明で活動的な夢を見ている。よって明け方に長い夢を見やすい。(松田英子)
サブリミナル記憶
閾下の(覚知できない)情報が記憶されていること。普段は情報が保持されていることに気づかないが、潜在意識に影響し、人間の感情に影響を与える可能性がある。(松田英子)