病的、残酷、下品と非難ごうごう
今日ほどホラー映画が数多く公開され、映画のジャンルとして確たる地位を占めている時代はない。本格的ホラー映画の最初の作品「魔人ドラキュラ」(1931年)では、開始直後に「怖い話です。出て行くなら今のうちですぞ」と警告のスピーチが入り、1950~60年代のホラー映画を牽引したハマー・フィルム製作の「フランケンシュタインの逆襲」(57年)も本国イギリスでは「サディスト限定映画、病的、残酷、下品」と非難ごうごうだったものだ。今では製作者や観客の意識は大きく変わり、社会状況を反映してホラー映画の内容、描写も様変わりしており、そうしたことからホラー映画は社会を映す鏡とも言えるだろう。衝撃のオカルト映画
第二次世界大戦をへて、ハリウッドでは50~60年代に暴力、性、犯罪などに対する規制が緩やかになり、さらにテレビへの対抗策としてより刺激的な題材、内容が取り上げられるようになる。70年代には「エクソシスト」(73年)、「オーメン」(76年)といったオカルト映画がヒットし、それまでマイナー会社専売の観があったホラーにメジャー会社が本腰を入れるようになり、ホラーが興行的にも重要視され始めた。80年代に「13日の金曜日」(80年)、「エルム街の悪夢」(84年)といった流血描写たっぷりのスプラッター映画が登場し、以来、内容的にも本数的にもエスカレートし続けている。妖怪と幽霊の因縁話
一方、日本では映画興行が始まった明治30(1897)年代ころから歌舞伎、講談、落語などをルーツとする怪談映画が多数公開されている。因果と輪廻(りんね)を説く仏教の教えを織り込み、善行を勧め悪事を懲らしめるという内容であり、悪事をなした者は必ず罰せられ、因果は親から子へと受け継がれていく。非業の死を遂げた者は未練が残って成仏できず、この世に出現して、生ける者を悩ませる。自ら積極的に危害を加えようとする西洋の幽霊、怪物と異なり、出現することで恐怖心を抱かせ、憎むべき相手の神経を狂気の淵に追いやり、同士討ちをさせることもしばしば。幽霊、河童(かっぱ)や雪女といった魑魅魍魎(ちみもうりょう)の妖怪が怪談の代表選手であり、幽霊の出現にいたる因縁話と出現時の凄みの効いた描写が売り物となっていた。時代が求める怪談が変わった?
第二次世界大戦後はGHQ(連合軍総司令部)の指示によって時代劇が作れず、怪談映画も途絶えていたが、49年に松竹で「四谷怪談」が作られて復活。53年の大映作品「怪談佐賀屋敷」がヒットし、56年から新東宝が怪談映画を量産し始め、59年には中川信夫監督による怪談映画の金字塔というべき「東海道四谷怪談」が公開された。61年の新東宝倒産とともに怪談映画は激減し、64年には小泉八雲原作の文芸ホラー「怪談」が作られたが、あまり怖くなく、怪談ファンの支持は得られなかった。68年には水木しげるの妖怪漫画が人気を呼んで妖怪ブームがおき、「怪談残酷物語」「妖怪百物語」「怪談雪女郎」「妖怪大戦争」や中川信夫監督の「怪談蛇女」、新藤兼人監督の「藪の中の黒猫」など計13本も公開された。この68年を境に旧来のタイプの怪談映画は衰退していく。日本怪談映画の新時代
70年代に入ると、山本廸夫監督が「幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形」(70年)でSF要素を加えた怪異譚を撮り、翌年には「呪いの館 血を吸う眼」で西洋ではおなじみのホラー・キャラクターである吸血鬼を登場させ、74年に「血を吸う薔薇」を手がけて、日本に吸血鬼映画を定着させた。77年、家が人間を襲うという「HOUSE ハウス」を大林宣彦が監督。当初、馬場鞠男(まりお)という名前を使うことにしていたことからもわかるように、イタリア・ホラー映画の巨匠マリオ・バーヴァ監督の影響を受けた作品となっていた。ハリウッドのオカルト映画のブームをみて、東映が「犬神の悪霊(たたり)」(77年)を製作。80年代にはスプラッター映画の流行にのって「処女のはらわた」(86年)、「死霊の罠」(88年)などが公開された。スプラッターものは、特殊メーキャップ技術の進歩とともに怪談映画の重要なカテゴリーとして、以後途切れることなく作られていく。Jホラーの登場
98年に鈴木光司原作の「リング」を中田秀夫監督が映画化して以来、日本のホラー映画は新たな局面に入った。伊藤潤二のホラー漫画を映画化した「富江 tomie」(99年)が話題を呼んでシリーズ化されたし、都市伝説を取り入れたり、ショッキングな内容を盛り込んだホラーがコンスタントに製作されるようになったのだ。2004年にプロデューサーの一瀬隆重が、世界を視野にホラー映画を競作しようと、新レーベル“Jホラーシアター”の旗印のもとに製作した病院ホラー「感染」(落合正幸監督)が公開される。“Jホラーシアター”は全部で6本製作され、「Jホラー」という言葉も日本のホラーを指す名称として広まっていく。一瀬は清水崇監督の「呪怨」(1999年)、黒沢清監督の「叫」(2006年)などのサイコ・スリラーも手がけ、Jホラーの先導者として重要な役割を果たした。映画の世界でもグローバル化が進み、海外の流行が直ちに取り入れられるとともに、逆に日本の流行も海外に波及し、ハリウッドで翻案再映画化されるケースも増え、中田秀夫や清水崇はハリウッドに招聘されるまでになった。また「学校の怪談」「ほんとにあった怖い話」といったテレビ番組や、ビデオ、DVDでも盛んに怪奇ホラーが作られ、そこから劇場版が製作される場合もある。絶対悪と因果応報の違い
欧米作品は宗教(特にキリスト教)的な要素が根底にあり、悪魔が重要なキャラクターとなっているのに対して、Jホラーでは絶対的な悪としての存在がほとんど登場しない。生身の形態を持たない魔物、悪霊、怨念が執拗にたたっていくという設定が多いのも特徴のひとつである。「リング」はビデオテープ、「着信アリ」(04年)では携帯電話という近代的なメカが重要な要素となっているが、本質は怪異に遭遇した人物たちがさまざまな方法で死に追いやられるという因果応報パターンである。ただし、旧来の怪談と異なるのは、時代劇ではなく、ほとんどが現代を舞台にし、若者たちがストーリーの中心におかれ、スプラッター・ブームを通過した作り手や観客にとって、血みどろの描写が必然となっていること。また、Jホラーはコアなファンがいるので、それなりのビジネスが成り立ち、新人監督の登竜門的な役割も果たしている。