ネットは陰謀論の理想的環境
誰もがどこでも眺めることのできるインターネット携帯の世の中で、各種の陰謀論の間口はいよいよ広く、敷居はいよいよ低くなってきた。デジタル文化はそもそも多くの人の「情報」とのかかわり方を変えてしまった。ニュースサイトに並ぶ見出しを見て、一瞬刺激されるタイトルをクリックするのは、誇大広告に惹(ひ)かれてクリックするのと変わらない。何かを知ろうとする時も、検索して、眺めて、忘れる、の繰り返しだ。忘れはしても、眺めた時に得た、黒か白かに単純化された印象だけは残る。複雑な灰色(グレー)ゾーンで探し続けるという手間をかけることはほとんどない。そんなサイバー空間は、陰謀論にとって理想の生育環境だ。もともと陰謀論は陰の世界だから明確な証拠がなくてもでっち上げられる。陰謀論とはさまざまな種類の陰謀論が合体したり取捨選択を経て組み合わせられたりして増幅するものだから、デジタルの手軽なコピー・アンド・ペースト機能は陰謀論の発展にぴったりだった。ネット・ユーザーのメンタリティーも陰謀論に向かいやすい。情報源がどこであろうとも「見出し」(つかみ)に迫力がありさえすれば簡単にクリックして、後はどこまでも迷宮に入っていく。正しい情報、信用できる書き手の発する情報が読んでもらえるという性善説は通用しないし、紙の媒体のように、何十年前の誤報が訴追されたり訂正されたりすることもない。無料で手元で早く読める、という利便性が優先されるからだ。
ネット時代以前の陰謀論は、普通の人にとって理解を超えるこの世の大事件を「説明」することで「秘密」を知ったという優越感を持たせてくれたり、因果関係を納得することで不安を解消してくれたり、分かりやすい悪者が名指しされることで個々の怒りや欲求不満のはけ口を与えてくれたりするものだった。一般に常識として信じられていることの「裏」に隠れる「驚きの真実」を周囲の人に開陳して「薀蓄(うんちく)を傾ける」喜びもあっただろう。
ネット時代の陰謀論は趣を異にする。たとえフィクションであっても「思い込み」であっても、「真実」かどうかということ自体へのこだわりが希薄になっていることだ。ネットに先立つコンピューターゲームの登場が、それを加速した。ゲームにはまったく架空のファンタジーもあるが、世界中の神話や伝説などの素材もまたふんだんに使われている。最終戦争や宇宙人の襲来、モンスターの攻撃といったテーマにもこと欠かない。ゲーマーは登場人物の一人になって冒険に乗り出す。バーチャルなその世界に入れ込んで現実感覚を失う人もいれば、現実とパラレルワールドを楽々と両立させて生きている人もいる。オンラインゲームで仲間をつくれば、ますます「あちらの世界」が強化される。バーチャルなつながりは、意識して人工的な「遊びの宇宙」を構築して楽しむ好事家グループの民主化をもたらした。
テロリストの広報戦略はなぜ有効か
一方で、想像力や判断力に欠ける若者や孤独なユーザーをターゲットにして、脅したり惑わしたりする悪意のグループも出現する。営利的なカルト宗教の説く「救い」、医学的根拠のない健康食品や化粧品やダイエット法から自己啓発メソードまで、ありとあらゆるものがネット上で喧伝(けんでん)され販売される。最悪のものは国家を自称するイスラム原理主義者の展開する作戦だ。高い編集技術を駆使して、現実世界で味わえない「聖なるもの」「自己犠牲の使命」「リアルに武器を取って悪と戦う」などを称揚し、画面の向こうにいるユーザーを「その気にさせ」て「あちらの世界」へリアルに出発するように誘うのだ。中東での戦闘は、日本人にとって少し前まで対岸の火事のようにリアリティーがないものだった。ところがいつの間にか、日本人が現地で人質になり、映像や脅迫がネット上で公開され、誰もがどこでも閲覧でき、テロリストとコンタクトさえできてしまう状況が生まれている。テロリストに占拠されている地域には、多国籍のイスラム教徒が集まるばかりか、欧米の伝統的なキリスト教家庭の子弟も、テロリストの戦略的な広報に心を動かされて戦闘地に合流する。ネットによるプロパガンダが可能にしたグローバリゼーションの実態だ。
「現地」で洗脳され、訓練された後で地元に戻ってテロを遂行する者もいれば、正気に返っておじけづいて処刑される者もいる。
中東の問題には植民地と移民の歴史、部族抗争の歴史から、石油の利権と軍事独裁政権までさまざまな要素があり、実態を知ることは容易ではないが、それでも生死を賭けて現地で取材して報道を続けるジャーナリストたちが存在する。真実に迫るためには何よりも、自発的、自律的な覚悟が必要なのだ。それはまさに、「陰謀論の消費」とは対極にある、「陰謀に挑む戦い」だといえよう。
メディアリテラシーの嗅覚を養う
ではそのような立場にない「普通の人」は、ネット時代の陰謀論の跋扈(ばっこ)にどうやって対処すればいいのだろうか。まず、「陰謀」というものが基本的に少数者による世界征服とか地球や地域の消滅など、ネガティブなものを喚起していることを念頭に置くことだ。善い知らせよりも悪い知らせの方が「つかみ」がよく、消費財としてシェアを広げるからだ。「秘密」や「隠す」こと自体が悪いわけではない。親が子供の枕元にそっとクリスマスプレゼントを置いたり、同僚の誕生日にサプライズパーティーを企画したりすることなどを、誰も「陰謀」とは呼ばない。「陰謀」とは、あるグループが自らの利益のために他者の不利益を謀るものだ。陰謀論とは、そのような先行する「悪」を説明することで、新たな不安や被害恐怖をそそるものとなる。
それを牽制(けんせい)するには陰謀論系のサイトをのぞくのをやめるのが一番だが、あらゆるアディクション(嗜癖)と同じく、そう簡単にはやめられない。だとすれば、サイバースペースに流れる毒の解毒にもまた、サイバースペースを経由する方法がある。「反陰謀論」や陰謀論を検証する場所に積極的に入り込んで、情報を相対化すると不安が鎮まるし、根拠のない陰謀論をどう扱えばいいかというコツもつかめてくる。「隠された秘密」だと騒ぎ立てられるものの本質を見極めるには、ピンポイントの掘り下げよりも歴史や社会の周辺情報についての知識を深め、教養を高めることが必要だ。また「自己中心」の視座を離れて客観性、公共性、利他性(特に子供など、自分より弱い立場の者を保護することに留意する)を指針にすることも大切だ。
この世で起きていることは、みな複雑系の事象である。たとえ実際に何者かが綿密に陰謀を張りめぐらせたところで、それが計画通りに実現するということはあり得ない。「完璧な陰謀」は、リアルの世界の制約のないバーチャルな次元でのみ成立するのだ。人も社会も環境も無常に移ろい、個人の生老病死でさえ誰にも分からない。