そして大江が壮年になって迎えた80年代の終わり。その時期もまた激動の時代であった。昭和天皇、岸信介、美空ひばり、手塚治虫、松下幸之助といった人たちの相次ぐ死、バブル景気、宮崎勤連続少女誘拐殺人事件、オウム真理教の始動、そして天安門事件、ベルリンの壁崩壊、東西冷戦終結……それまで曲がりなりにも安定していたはずだったものが一気に地殻変動を起こし、崩壊がはじまるまさにとば口であった。
80年代後半以降に起こった出来事は、いずれも突然に現れたものではない。それまで見て見ぬふりをしてきた戦後社会の矛盾がマグマのように同時期に一気に表に出てきたものだ。それは戦後レジームの機能不全であり、失敗と挫折の顕在化であり、昭和という時代が残した傷痕の腫瘍化ともいえるものだった。
この2つの時期は、ともに社会の変化を生み出す出来事が同時多発的に起こった時代として共通している。しかし、変化の内容はまったく違う。復興と経済成長の50~70年代が新しさと未来にむかう青春期の混乱と改革の時代であったとするなら、平和と豊かさの80年代後半は、壮年期の終わりに襲ってきた傷痕と過去にむかう内省の時代の訪れだった。
自己批評の試み
『懐かしい年への手紙』の舞台となっている谷間の村は、「永遠の夢の時」という人間の生と死が循環する世界観の中心的な場である。主人公のギー兄さんは、60年安保闘争に巻き込まれ、大けがを負ったことをきっかけに村に帰郷し、村の若者を中心とした共同体である「根拠地」運動をはじめる。
ギー兄さんは東京で作家をしている「僕」とその家族を呼び寄せるため、コミューン「美しい村」の建設に向けても動き出し、「僕」に都会での暮らしから離れ、障がいのある息子とともに故郷に戻り、村の歴史を書いて暮らすように誘う。
しかし、痛ましい事件が起こる。東京から村に移り住んでいた女性が死んでしまうのだが、ギー兄さんがその犯人として取りざたされる。事件の真相が不明なまま、彼は一切の抗弁をせず、罪を認め収監されてしまう。服役を終えた彼は村で孤立し、「根拠地」運動もあえなく挫折する。
時を経て、ギー兄さんは、かつて夢見た「美しい村」跡地に人造湖をつくる計画を立てる。堰堤(えんてい)の建設にとりかかるが、下流に住む住民との対立が生じる。村人との対立が激しくなっていき、ある日過激な反対派によって襲撃されギー兄さんは命を落としてしまう。あくる朝、殺されたギー兄さんの死体が湖に浮かんでいるのが発見される。
ひとりの青年が青春期の理想と挫折の体験を重ね、受難と回心を経て、最後は自ら犠牲となって死を迎える物語は、この先「どのように生き直せるか」という昭和の終わりに迎えた主題に大江が全霊をこめて自身と向き合った作品である。
この作品から大江は本格的に自身のあり方を検証し、書き換えるという作業を試みている。作中で自分の現実の小説の書き直しを試みているところがある。自作の『個人的な体験』のラストシーンを実際に斜線を引きつつ添削して見せているのだが、それはすなわち、読者に過去の作品を知っていることを求めていることになる。
作家であり、障がいのある子どもと暮らしている語り手の「僕」をめぐって、私小説ふうに大江自身に関わる事実とおぼしき事柄や出来事がつづき、「僕」あるいは他の人物がそれらを検証しつつ記述していくというこの作品の語られ方そのものが、作者が作者自身を批評していくというスタイルになっているのだ。
意識化された自己批評が小説に取り込まれていく。これは決定的な変化といえる。この時期に行われた江藤淳、石原慎太郎、開高健らとの座談会(註4)で、大江は「作家にはまず自分自身の正当性を疑うということが、第一原理みたいになってしまった」と述べているが、中年にさしかかり昭和の終わりに直面した彼は、自分自身を疑い、批評的にとらえないと作品が生み出せない状況に置かれていたのだ。
その時、大江自身のうちに小説の作り方に対する内的な必然性があったに違いないし、作家として時代に呼応するための必要な旋回でもあったろう。しかし、それと引き換えに作品の成り立ち自体が、作者または小説に忠実な読者以外にはあらかじめ閉じられたものとなってしまったことは否めない。大江作品が難解だと言われる要因のひとつが、この作品から顕著になってきた。
その後の大江はさまざまな自己批評の試みそのものを小説の基本スタイルとしていく。しかし、繰り返される自己批評は、底の見えない穴を掘りつづけるがごとく、いずれ苦しい自己模倣の様相を呈してくる。それはさながら、過去と傷の問い直しを何度も強いられた時代である平成年間のアレゴリーそのものでもあった。
問いの喪失
初期の大江文学の最大の特徴は「時代=状況との緊張関係」だった。時代精神を背負い、「同時代」というワードを疑うことなく使うことができ、いま何が主題なのかということなど考えるまでもなく、現在の生に内在する問いが発してくるものをそのまま作品化できた。そして書かれた作品は多くの読者に受け入れられた。
自らの生と時代とを結ぶ問いを持ち、個人的なことが普遍的なものに昇華しうる回路が大江にはいまだ残っていた。それゆえに言葉は生み出され、文体ができ、小説世界が生成された。主題は設定するというよりは、固有の問いが生み出してくるものだった。
ところが、自己と過去にむかう内省の時代の訪れは、自らの問いと社会とを切り結ぶ回路を大江に見失わせてしまった。「社会の大きな変換の中で手も足も出ない」という迷いの中で、自己批評とともに大江が意識化したのは、作品に先立つ主題の設定であった。かつてのように作者固有の生の問題が自ずと主題を引き寄せていく書かれ方ではなく、あらかじめ決められた主題の中に個の生が回収されていく書かれ方へと変化してきた。問いが作品を立ち上げていくのではなく、主題への回答として作品が書かれるとでもいうような転換が生じてしまったのだ。
『懐かしい年への手紙』以降、晩年に向けて、息子や家族、自死した義兄の伊丹十三や父親の死、自らの老い、東日本大震災など、作家本人にとって切実なものがテーマとして書かれていくが、初期の作品にみられたような作家の生々しい問いが主題を引き寄せ、人間を動かし、作品世界を切り開いていく緊張感が立ち上がってくることはほとんどなくなった。
(註1)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P339
(註2)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P224
(註3)
『大江健三郎 作家自身を語る』、大江健三郎(聞き手・構成 尾崎真理子)、新潮文庫、P254
(註4)
「文学の不易流行」『新潮』88年5月号