上田 よくあるビルドゥングスロマン物の小説だと、たとえば、ウーバーイーツ配達員のKが配達員をやめることによって、成長するみたいなストーリーになりがちなんです。でも、そういう物語にはしたくなかったんですよね。いまの世の中の感じというのは、マトリョーシカのように、小さいシステムの外には、より大きなシステムがあって、その外側にもまた……みたいな感じだと思うんです。そういう前提のなかで、何か自己を確立できるヒントになるような作品が書きたかったんです。
西村 Kは成長とは違うんだけど、最終的に彼は自分の世界を少し広げることができたんじゃないか、そういうふうに読みました。
上田 ありがとうございます。システムに回収できない〝この私〟とは、西村さんの評論だと〝女〟ですよね。そういう〝実存〟をあぶり出すと言う意味では、小説と批評の違いはあれども、僕と西村さんは同じような表現をしているのかもと思いました。
西村 私の実感としても、批評で「あなたのやっていることは全てシステムにからめとられているのだ」と指摘したところで、何も問題は解決しないだろうというのがあって。それでもアイドルはいるじゃないか、みたいな。
上田 「システム」に回収されない生身の身体性を持ったアイドルはいるでしょうと。
西村 そうです。「システム」と「実存」。この2つの不可分な結びつきというのを『女は見えない』においては、かなり意識して書いたつもりです。
上田 アイドル/実存というものは確実に存在するのだ(代替不可能性)ということと、システムから絶対的には逃れられないよね(代替可能性)という、ある種の諦観みたいなものは、ポジティブな方向で両立できるんじゃないかなと最近考えているんですよね。2つの葛藤・対立というより、システムにまみれつつ自分の実存をどう受け止めていき、活かしていくのか、そのことを創作上で探りたいんです。
「推し」の時代に問う「批評」とは?
上田 僕は小説と批評はセットで存在して欲しいな思っているんです。西村さんは本の最初でいま批評を書くことの難しさについて記してましたけど、さっき話したYouTubeだったり、「推し」文化のようなものの盛り上がりもあるなかで作品を批評することはやっぱり難しいという実感がありますか?
西村 「赤スパ」(「赤いスーパーチャット」の略。YouTubeの投げ銭機能「スーパーチャット」で1万円以上を配信者に送金すること)を投げることと張り合ったら批評に勝ち目はないと本に書きましたね。
「推し」に関しては、その前段階にオタク文化の「萌え」があったと思います。「萌え」というのは対象と対峙したときに、まず第一に自分の身体に起こることなんじゃないですかね。
上田 なるほど、その身体感覚だった「萌え」が、好きな対象に向かうのが「推し」。ある種、志向性つきの「萌え」とも言えるのかな。
西村 良くも悪くも「活」の部分が「推し」ではピックアップされます。いま「推し活」が盛んな理由の一つに、コスパ・タイパが大事という価値観も作用しているのではないかと思います。自分が「推し」に投じている時間を〝見える化〟したいというか。私はそれの何が楽しいのかわかりません(笑)。
上田 ははは(笑)。
西村 批評に関して言えば、徹底的に印象批評を書くしかないなと思うようになりました。いまは作り手側の情報発信が大きい時代なので、作り手側の意見が何より重要視される。何かを批評しても「それは、作者が言ったことと違う」とファンからクレームがつく。でも、批評を書くときに、できる限り作り手が書いたものはもちろん、発言なども調べるわけです。調べたうえで私の読後感を記す。小林秀雄が批評とは「己れの夢を懐疑的に語る事」と記してましたけど、批評は対象に〝化かされた私〟の経験を書くんですよね。〝化かされて〟いるわけだから、それは懐疑的にしか語れないわけですよ。そういう面倒な文章は「推し活」をしている人には読んでもらえないだろうなとは感じます。
上田 「推す」っていうのは、どれだけ純度高くその対象に没入できるかみたいなことですもんね。批評が嫌われるとしたら、「没入してるんだから、邪魔すんなよ」って側面もあるんでしょうかね。
西村 でも、批評家だって没入はしてるんですよ(笑)。
上田 そうですよね。没入の仕方が違うことを理解してもらって、批評も読んでもらいたいですよね。
いまはわかりやすくラベリングして、会話なり思考なりが進む世の中なんですよね。ネットスラングでウーバーイーツ配達員のことを「負け組ランドセル」みたいな表現で揶揄していたのは衝撃でした。安易にラベリングする背景には、デジタル化であまりに社会が複雑だし、フォーカスが次から次へとうつって行くから、さっさとわかった気になりたいというのがあるんだと思うんです。
西村 確かにそういう雑なラベリングがSNSを中心に散見されるようになりましたね。
他方で、そういうラベリングに対する暴力性を指摘することもすごく増えたなと私は思います。いわば、ラベリング派と反ラベリング派の二つに別れての激しいバトルになるんだけど、結局、議論も平行線のままで、お互いが硬質なコミュニケーションしか取れない。
かつ、暴力性を指摘することは正しくても、その批判のスピードがとにかく速い。たとえば「負け組ランドセル」と出ると、すぐにSNS上で「この上級国民が!けしからん!」みたいに炎上して、忘れられて、また次のトピックへ……みたいな。結局、何が問題になっていたのかわからなくなる。この繰り返しがすごく気にかかっています。ラベリングとそれへの反論や炎上の組み合わさるスピードが速すぎて、何も解決できない。
それこそ、松本人志はこういう、あるトピックで対立して議論が硬質化したときに、水を差すというか風穴を開けることを言う人だったと思うんですよ。だからいま松本のこととかを一生懸命ネットで燃やしている人が、自分がいかに硬質なコミュニケーションしか取れていないか自覚がない、ということこそが問題でしょう。
上田 でもいまはそういうことを指摘するだけで炎上しますからね。
西村 ええ、困ったもんです。
上田 いま、いろんな旧来のシステムがぐらついて不安なので、シンプルな言葉や物語に飛びつかざるを得ないところはあるかもしれない。けど、そのスタンスだと根本的に〝見えない〟ものがある。〝見えない〟をどう〝見える〟ようにしていくのか。今日、西村さんとお話して作家も、批評家もその点では同じ事をしているのかもしれないと思いました。なかなか理解されづらい仕事かもしれませんが、踏ん張りましょう。
西村 そうですね。がんばります。