戦時中に全国で組織された末端の地域住民組織。5軒から10軒単位で構成される。政府から町内会・部落会を経て隣組に至る上意下達のシステムであり、戦時中の生活に求められる様々な業務を担う単位だった。
1940年、内務省の「部落会町内会等整備要領」に基づいて全国に120万の隣組が組織された。その目的は、政府の宣伝や監視が末端にまで行き届くようにすることと、戦時に地域生活に必要な仕事を住民同士で行わせること。具体的には、防空、防火と呼ばれる空襲対策や戦争非協力者の相互監視、防犯、炊事や保育の相互扶助、そして配給などがその内容である。
男性は徴兵されていたり、日中は勤めに出ていて動けない人も多かったので、女性が隣組の実務を担うことが多く、女性の「組長」もいた。
隣組では、月に一回、「常会」が行われる。これには、家長あるいは主婦が必ず出席しなければならないと定められていた。政府はラジオで「常会の時間」という番組を放送し、隣組の運営を指導したりした。
また、当局から発せられる情報や指示を記した紙を板に張りつけた「回覧板」を隣組のなかで回し読みすることが求められた。今でも町内会によっては行われている「回覧板」は、このときに広まったものだ。
隣組の最も重要な仕事の一つは「配給」。戦況が厳しくなるなかで、砂糖から米、味噌、衣料品と、生活必需品が切符で配給されるようになると、切符や配給物資の分配などは隣組の組長が行うようになった。行政への報告や書類の管理に加え、住民の生活全般に関わる配給の管理まで、組長の責任は重く、業務は膨大だった。
もう一つは、防火防空訓練。1942年4月に本土への初の空襲があって以来、隣組や町内会単位で、在郷軍人(予備役の軍人)の厳しい指導のもと、バケツリレーによる消火訓練などが行われた。ただし、実際の空襲ではほとんど役に立たなかった。
隣組の活動を盛り上げるために作られて大ヒットしたのが、「隣組」という歌で、作曲は飯田信夫、作詞は漫画家の岡本一平。岡本太郎の父親だ。「とんとんとんからりと隣組/格子を開ければ顔なじみ/廻して頂戴、回覧板/知らせられたり知らせたり」という歌詞。ちなみに戦後はこのメロディーを流用して別の歌詞をつけて、コント・グループのザ・ドリフターズの番組で使っていた。「ド・ド・ドリフの大爆笑」と言えば思い出す人も多いはず。