有事における最高司令部である大本営が戦況を国民に伝えるための発表。大本営は、戦時または事変に際して設置される。アジア太平洋戦争においては、日中戦争が始まった1937年に設置された。
同年、その大本営内に「報道部」がつくられ、軍の公式発表を伝えるようになり、多い時は1日に2、3本といったペースで大本営発表が国民に届けられるようになった。戦時中を舞台にしたテレビドラマなどで、ラジオが「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営発表。帝国陸海軍は…」と甲高い声で伝えている場面を見たことがある人は多いだろう。
しかし今日、「大本営発表」と言えば、「政府や有力者などが発表する、自分に都合がよいばかりで信用できない情報」(小学館『大辞泉』)を指す代名詞としても使われている。日本軍の戦果を誇大に伝える虚報があまりに多かったからだ。
大本営発表も開戦当初はおおむね正確だった。だが戦況が悪化し始めると、次第に怪しくなってくる。1942年6月のミッドウェー海戦では敗北を隠蔽し、1943年2月には、激戦地ガダルカナル島からの日本軍の撤退を「転進」と呼び、同年5月にアッツ島の部隊が全滅した際には、これを「玉砕」と美しい表現で言い換えた。こうした言葉の言い換えから始まり、その後は戦果の誇大化や損害の隠蔽が進んだ。大本営発表に従えば、太平洋戦争中に日本軍が撃破した米軍空母は84隻、戦艦は43隻。だが実際は、それぞれ11隻と4隻だった。
戦争末期になるころには、庶民の間でも「発表ばかり勝ったようにしているが、本当は負けて居るとのことだ」「大本営の発表も当にならぬものが多い」などといった声が広がり、「大本営発表」の信用は崩壊した。
なぜこんなことになったのだろうか。近現代史研究者の辻田真佐憲は著書『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争』(幻冬舎新書、2016年)で、軍組織内の不和や情報軽視などに加えて「軍部と報道機関の一体化」を挙げている。メディアが軍に懐柔され、チェック機能を果たさなくなったことで、軍も発表に対する緊張感を失い、虚報の発表に慣れてしまったというのである。今日でも当局とメディアの癒着といったことは気を付けなければならないことだろう。