旧満州(中国東北部)や内モンゴルに「満蒙開拓団」「満蒙開拓青少年義勇軍」として移民した男性と結婚した女性のこと。当時のメディアがそう呼んだ。
「満蒙」とは、満州と内モンゴルを総称したもの。この地における日本権益を防衛する駐屯軍である「関東軍」が1931年に満州事変を起こし、翌年に日本の傀儡(かいらい)である「満州国」が成立して以降、「武装移民」と呼ばれる銃で武装した在郷軍人の集団が続々と満州に入植し始めた。
開拓といっても、ほとんどの場合、すでに中国人の農民が農地としている土地や、さらには家屋までも、武力を背景に強制的に取り上げるものだった。そのため、反発する農民たちの反乱・抵抗が続出し、関東軍による鎮圧で多くの犠牲者が出た。
1936年以降は、満州移民はそれまでの関東軍主導から国策となり、「満州農業移民100万戸移住計画」が打ち出される。全都道府県で「開拓団」が募集され、主に貧しい農民たちが入植した。日中戦争が始まって兵士の動員が拡大し、成人男性が少なくなると、今度は16歳から19歳の少年を募集し、農業と軍事の訓練をして「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に送り込んだ。その数は約8万6000人に上り、満州移民約27万人のうち、およそ3割を占めるに至った。
政府と関東軍の目的は、満州における日本人の人口を増やし、治安維持につなげるとともに、ソ連との戦争に備えることにあった。
しかし男性が多い開拓移民を満州に定着させるには、彼らの配偶者となる女性を送り込む必要がある。そこで1939年に発表された「満州開拓政策基本要綱」に「女子拓殖事業」が盛り込まれ、若い女性たちを募集し、「女子拓殖訓練所」「開拓女塾」といった養成機関で訓練し、満州に送って開拓移民と結婚させる政策が始まった。それが「大陸の花嫁」と呼ばれるようになった。
「新日本の少女よ大陸へ嫁(とつ)げ」という宣伝歌が作られ、女性誌が「大陸の花嫁」を後押しする記事を書いて、雰囲気を盛り上げた。「花嫁」たちは、家庭の事情から、あるいは使命感を抱き、自己実現を求めて満州に渡っていった。
しかし終戦直前の1945年8月9日、ソ連軍が国境を超えて満州になだれ込むと、関東軍は開拓民を見殺しにして素早く後退。すでに男性の多くが根こそぎ兵役に取られて女性と子ども、老人ばかりになっていた各地の開拓団は、恨みを抱く現地の農民たちやソ連兵に襲われる。襲撃や略奪、レイプが頻発し、追い詰められた人びとは「集団自決」した。
約8万人が命を落とし、子どもを中心とした約1万人が、「中国残留邦人」となって中国人の家庭に引き取られていった。
募集に応じて「大陸の花嫁」となった井筒紀久枝さん(1921年生まれ)は、襲撃や飢え、病気を乗り越えて、ようやく帰国を果たしたが、幼い娘を栄養失調で失った。井筒さんは、半生をつづった『大陸の花嫁』(岩波現代文庫、2004年)に、こんな詩を掲載している(一部抜粋)。
東洋平和、五族協和を信じ、
中国侵略の手先になっているとも知らず、
傀儡(かいらい)国、満州へ行きました。
そして、生めよ殖(ふ)やせに囃(はや)されて、
子どもをたくさん産みました。
そのあげく、
祖国から見捨てられた、
日本人の、女、と、子どもたち。