夜間の空襲の際に標的とされやすいからという理由で、家庭や職場、商店、工場などの明かりを規制すること。最小限の明かりだけにしてそれ以外は消す「消灯」、使う明かりもなるべく暗くする「減光」、明かりが外に漏れないようにする「遮光」が求められた。
「減光」「遮光」のため、窓には黒や青のカーテンを付け、明かりには黒い布や紙でできた笠を付けて周りを覆ったり、真下だけを照らすように側面を黒く塗った灯火管制用電球(「防空電球」)を使ったりする。空襲警報が発令された場合は完全な消灯が求められる。
市民が灯火管制を行う義務は、1937年に制定された「防空法」に明記されていた。違反すれば300円以下の罰金または拘留が科せられた。300円は当時の教員の初任給5カ月分に当たるという。その後、1941年の改正で罰金は1000円となり、さらに1年以下の懲役が加わった。
ただし、実際の空襲では、米軍機は照明弾を散布しながら爆撃したので、灯火管制に効果があったかどうかは疑問である。
1941年に改正された防空法には、応急防火の義務も罰金付きで盛り込まれた。空襲で建物が燃えそうになったら、所有者・居住者・管理者、あるいは付近の人が防火に努める義務があることが明記された。同年に政府が刊行した「時局防空必携」では、建物を焼くために高熱を発する焼夷弾についても、「砂袋」や「火叩き」で消火に努めるように記述されていた。
実際の空襲では、バケツリレーも火叩きも役に立たず、むしろ「逃げるな、火を消せ」として避難を許さないことで被害は拡大した。
1945年1月、カーチス・ルメイが対日爆撃部隊の司令官に任命されると、大都市の市街地を狙った夜間じゅうたん爆撃が始まる。3月10日の東京大空襲では、約300機のB29爆撃機が1665トンの焼夷弾を投下し、およそ10万人の命を奪った。東京・神奈川、関西などを中心に都市への夜間爆撃が続き、毎日新聞(2020年8月15日付)の調査によれば、死者数は全国で約38万7000人に上った。
灯火管制は戦争終結から5日後の1945年8月20日に解除され、防空法は1946年1月31日に廃止された。