兵士となることを求める臨時召集令状を指す俗語。ただし、兵役の知らせ全般を指すものではない。すでに兵役を済ませた人や、後述する「補充兵」などに届くものである。
まずは徴兵の仕組みを説明しよう。
1873年の徴兵令施行以後、すべての男子は満20歳を迎えると徴兵検査を受けなければならなかった。検査では、全裸になって身長、体重、視力、聴力、性病の有無などを徹底的に調べられ、その結果によって兵役への適性についての5つの等級に分けられることになる。
「甲種(こうしゅ)」は、身長155センチ以上で体が頑丈な者(当時の平均身長は164センチ)。「乙種(おつしゅ)」はやはり身長155センチ以上で甲種に次いで頑丈な者。「丙種(へいしゅ)」は150センチ以上で155センチ未満の者、あるいは155センチ以上でも乙種より「筋骨薄弱の者」。「丁種(ていしゅ)」は150センチ未満か、身体的精神的な問題がある者。「戊種(ぼしゅ)」は、今は病気療養中であるか、あるいは発育の遅れがあるために、翌年にあらためて検査の対象となる者。
このうち甲種・乙種がすぐさま兵役の対象となる。ただし平時にはそんなに多くの兵士は要らないので、甲種のなかから抽選で選ばれた者が兵役を務めることとなる。兵役期間は陸軍が2年、海軍が3年である。これを「現役兵」と呼び、抽選で選ばれなかった者を「補充兵」と呼ぶ。「丙種」は兵役には就かないが「国民兵」と位置付けられる。
ただし、戦争が始まって兵士の増員が必要になると、兵役を済ませた「現役兵」(「予備役」と呼ばれる)にも、兵役に就かなかった「補充兵」にも、再度の呼び出しがかかることになった。そのときに登場するのが、臨時召集令状、つまり赤紙である。
赤紙は、紙の色が赤いことから、そう呼ばれる。役所の「兵事係」が家に来て、本人あるいは家族に手渡される。紙面には「右臨時召集ヲ令セラル 依(よっ)テ左記日時到着地ニ参著シ此ノ令状ヲ以(もっ)テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ」と書いてあり、召集された人は、職場や家族のことなどの身辺整理を済ませた上で、記載された日時に出頭しなければならない。
当然ながら、その多くはすでに仕事を持つ社会人である。会社員の初任給が75円だった時代に、兵長の給料が13円50銭。経済的なことだけを考えても、働き手を失う家族は大変だった。
1931年の満州事変以降、日本軍は兵士の動員を拡大していく。この年に約28万人だった日本軍総兵力は、1937年の日中戦争が始まって以降はすぐに130万人を超え、1941年の太平洋戦争開始後は約280万人、1945年には716万人に達した。1943年12月には、徴兵検査が20歳から19歳に引き下げられ、兵役の上限は40歳から45歳に引き上げられた。学生の徴兵延期の特権も廃止された。日本の植民地である台湾・朝鮮の男子に対しても徴兵が行われ、実際に台湾人8万433人、朝鮮人約20万9000人が日本軍の兵士とされた。戦争末期には「丙種」以下も動員された。
最終的に男性の4人に1人以上、2世帯に1人以上が兵士として動員された計算になる。そのうち約230万人が、二度と家族のもとに帰って来なかった。