終戦から2日後の8月17日に首相に就任し、10月9日に辞任した皇族の東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が、在任中に国民に発したメッセージから生まれた流行語。
東久邇は、8月28日の記者会見で「この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思ふ、全国民総懺悔をすることがわが国再建第一歩であり、国内団結の第一歩と信ずる」と発言。また、「国民道義の低下」が敗戦の原因の一つだとした。
9月5日の施政方針演説でも、次のように述べた。
「敗戦のよって来る所はもとより一にして止まりませぬ、前線も銃後も、軍も官も民も総て、国民ことごとく静かに反省する所がなければなりませぬ、我々は今こそ総懺悔し、神の御前に一切の邪心を洗い浄め、過去を以て将来の誡めとなし、心を新たにして、戦いの日にも増したる挙国一家、相たすけ相携えておのおのその本分に最善をつくし、来るべき苦難の途を踏み越えて、帝国将来の進運を開くべきであります」
東久邇のメッセージは、「一億総懺悔」論と呼ばれて、冷ややかに受け止められた。指導者の責任と国民一般の責任をあいまいにし、敗戦の原因を「国民道義の低下」に求める主張は、天皇や為政者、軍人の責任を相対化し、免責することになるから当然である。すでに戦争末期から、人々は戦争指導者たちへの信頼を失いつつあった。内務省の調査では、「最後まで国民をだまして来た指導者は万死に値す」「従来の指導当局は国民が総懺悔する前に自ら責任を負うべきだ」「これから政府の言うことも聞かない」といった反応が記録されている。
『日本軍兵士』(中公新書)の著者である吉田裕・一橋大学名誉教授は、「民衆の大部分は、『ダマサレタ』という形で自己の戦争協力・戦争責任の問題を『清算』し、『一億総懺悔』論的な議論の影響を受けることはなかったものの、深刻な生活難に直面していたこともあって戦争責任問題や東京裁判に対する関心は概して低調であった」と指摘している(「占領期における戦争責任論」『一橋論叢』105 (2)、1991年)。
人びとは、連合国が日本の政治家や軍人たちを裁く東京裁判に対しても無関心だった。アメリカ国務省の報告は、それを「運命論的な黙従の態度」と表現している(同上)。
他方、知識人の間では戦争責任論が議論されていたが、そこでは「一億総懺悔」を批判しつつも、自らの戦争協力を棚に上げて責任を一部の「軍閥」にのみ負わせる傾向があった。
終戦直後の人々の精神状態は「虚脱」と表現されることが多い。昨日までの戦争で多くの人が家族を失っていた。また、都会では食糧配給が滞り、餓死者も出るほどの食糧難が続いた。人びとは農村に買い出しに行き、闇市で生活必需品を法外な価格で手に入れることに必死だった。
8月15日まで「進め一億火の玉だ」とさけんでいた政府は、終戦から2週間後の8月28日には「一億総懺悔」と言い出した。多くの人々はもはやそれに同調しなかったものの、自らの手で戦争責任を追及する気力も残されていなかったのだ。「一億総中流」とうたわれる高度成長時代の始まりは、まだ先の話である。