1945年の終戦直後から翌年にかけて、空前の大ヒットとなった歌謡曲。サトウハチロー作詞、万城目正作曲で、並木路子が歌った。「赤いリンゴにくちびる寄せて、だまって見ている青い空」という出だしを聴いたことがある人は今でも少なくないだろう。
同年10月、映画『そよかぜ』(佐々木康監督)が公開された。戦後に制作された最初の映画である。舞台の照明係をしていた少女が歌手としてデビューするというスター誕生物語で、主人公を演じたのが松竹歌劇団出身で映画出演は初の並木路子だった。劇中で歌われる「リンゴの唄」が映画そのものよりも反響を呼んだ。
翌46年1月、レコードが発売されると、12万5000枚という、物資が欠乏した時代としては驚異的な売り上げとなり、ラジオで頻繁にかけられた。すると街中で、幼い子どもから自転車に乗ったあんちゃん、駅のホームで電車を待つおじさんまでがこの歌を口ずさむ姿が見られるようになった。同年1月から放送が始まったNHK「のど自慢素人音楽会」では参加者が繰り返し歌い、街の電気店は外に向かって一日中流し続けた。当時、小学1年だった作家の片岡義男は、「いつでもどこにいても『リンゴの唄』が聴こえてくる、という状況は少なくとも3年くらいは続いた」と振り返っている(『歌謡曲が聴こえる』新潮新書、2014年)。
戦地から帰還する兵士たちや植民地からの引き揚げ者たちは、船中で船員や看護師が歌う「リンゴの唄」を聴いて、「日本ではこんな明るい歌が流行っているのか」と希望を抱いた。
複雑な思いを書き残しているのが、後に作詞家・小説家となるなかにし礼。彼は満州から引き上げる船の中で、船員が歌うこの歌を聴いた。8歳だった彼は、幼いながらに、私たちがまだ着の身着のままで苦しんでいる最中だというのに、なぜ平気でこんな明るい歌が歌えるのだろうと悲しくなり、「リンゴの唄」を歌いながら泣いたという。
ただ、明るい歌の後ろには、つい昨日までの戦争が残した悲しみがあった。歌っていた並木路子も、東京大空襲で自らも家族とともに火の海を逃げまどい、母を亡くしている。父と次兄、心に結婚を決めていた初恋の人も、戦地で命を落とした。
「リンゴは何んにもいわないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる」という歌詞に人びとは複雑な気持ちを託していたに違いない。
ちなみに並木の長兄も、南方から引き揚げる船の中で「リンゴの唄」を初めて聞いた。「誰が歌ってるんだ?」と船員に尋ねると、「並木路子さ」との答えに、「それはオレの妹じゃないか」とびっくり。日本に上陸するとその足で大船撮影所に直行し、妹に再会したという。
当時のヒット曲としては、他に「港が見える丘」(1947年)、「星の流れに」(同年)、「東京ブギウギ」(同年)などがある。天才少女歌手と呼ばれた12歳の美空ひばりが「悲しき口笛」でデビューしたのは1949年のこと。美空もまた、「のど自慢」で「リンゴの唄」を歌ったことがあった。