沖縄に伝わる弦楽器・三線(さんしん)を、空き缶とパラシュートの糸などで作ったもので、終戦直後の沖縄で広まった。三線は日本本土の三味線(しゃみせん)のもとになったともいわれる楽器で、三味線よりやや小ぶりのもの。
1945年3月26日、米軍が慶良間諸島に上陸。戦火は沖縄本島を中心に民間人を巻き込んで悲惨を極め、6月23日に日本軍の組織的戦闘が終了するまで続いた。これにより、日本軍約6万6000人、米軍約1万2000人に加え、民間人約9万4000人(推定)が命を失った。友軍であるはずの日本軍によって虐殺された民間人もいた。兵士として戦った人も含め、沖縄県民の4人に1人が亡くなった。今の沖縄県民のすべてがなんらかのかたちで被害者や遺族だといわれる。
戦闘終了後、米軍は沖縄本島の12の地区に鉄条網で囲われた収容所(キャンプ)を作り、民間人を収容した。1945年8月25日時点で33万4000人が収容されていた。生活環境は劣悪で、多くの人が栄養失調やマラリアに苦しめられた。山に潜む日本兵が夜陰に乗じて食料を求めて収容所を襲撃したり、米兵による女性のレイプも頻発した。
そうしたなかでも、沖縄の人びとは、わずかでも心を休ませる時間をつくるために、パラシュートの糸と米軍配給の食品の空き缶でカンカラ三線を作り、民謡を歌い続けた。
当時、「沖縄のチャップリン」とも呼ばれる異色の芸人で、歯科医でもあった小那覇舞天(おなは・ぶーてん)は、悲しみに沈む人びとの家を勝手に訪問しては、「命ぬ御祝事さびら(ぬちぬぐすーじさびら:命のお祝いをしましょう)」と言って芸を披露し、彼らを笑わせた。生き延びたことを祝い、明るく生きてこそ、亡くなった人たちへの供養にもなるのだと。舞天の芸は、弟子の照屋林助へと受け継がれ、外来音楽と沖縄音楽を「チャンプルー」(ミックス)したその芸は、沖縄独自の民衆芸能の発展に寄与した。
沖縄戦直後の苦難の時代をしのばせるカンカラ三線は、土産物店や楽器店などで買うことができるほか、インターネットなどで作り方が紹介されるなど、今も愛され続けている。