覚醒剤の俗称だが、もともとは大日本製薬(現・住友ファーマ)が市販していたメタンフェタミン(覚醒剤)の商品名。
「ヒロポン」の販売が始まったのは1941年。覚醒剤にはアンフェタミン、ゼドリンもあるが、圧倒的なシェアはメタンフェタミンの「ヒロポン」で、覚醒剤の代名詞となった。
当時は覚醒剤は合法で、危険性や中毒・依存性はほとんど認識されていなかった。日中戦争から太平洋戦争へと総動員体制が深まる中、覚醒剤を服用すれば、気分が高揚し、いつまでも眠くならず、疲れも感じなくなるので、徹夜作業の助けになるとして、兵士や軍需産業の労働者に積極的に提供された。戦争末期には、薬学の専門学校生や中学生など、勤労動員の生徒たちによって製造が続けられた。
ヒロポンは軍でも使用された。飛行士が長期の飛行に耐えられるよう、経口あるいは注射で与えられた。海軍で軍医を務めた蒲原宏さんは、出撃前の特攻隊員約200人にヒロポンの注射を打ったと証言している。日本だけでなく、当時は各国の軍隊で兵士に与えられていた。
戦争が終わると、戦時下に増産されていたヒロポンが市中に出回るようになった。また軍隊の解体に伴い、軍に管理されていたヒロポンを関係者が持ち出して売りさばいた。社会的、経済的な混乱の中、ヒロポンは瞬く間に人々の間に蔓延していった。1945年から55年の約10年間で使用経験者が200万人、中毒者が20万人といわれる。
作家の織田作之助や坂口安吾もヒロポンを常用していた。安吾は、ヒロポンを錠剤で飲んで3日、4日と徹夜で仕事をして、仕事が終わると今度は眠るために大量の酒を呑むといった生活をしていたという。中毒のせいで、しばしば錯乱するようになり、1955年に脳出血によって48歳で亡くなった。
漫才師で女優のミヤコ蝶々も、当時、重度の依存状態となったことを回想している。「罪悪感はありませんよね。公然と売られていて、作家や芸能人がどんどん買って、どんどん打つ。(略)ひどい時は、一日に三、四十本も打ちました。(略)舌はもつれて、なにをいうてるのか分からん。コンビとはけんかをする。舞台はむちゃくちゃになって、仕事もホサれてしまいました」(相可文代『ヒロポンと特攻』論創社、2023年)。
こうした中毒症状が知られるようになり、また受験生などの青少年にまで広がると、1950年11月、大日本製薬はヒロポンの製造を中止。さらに1951年6月には覚醒剤取締法が成立した。ミヤコ蝶々は「軍隊というか国の都合の方が先で、国民はええように振りまわされてました」と語っている(同上)。
覚醒剤取締法の成立で、覚醒剤使用は激減したが、1970年代以降、暴力団などによる密輸で再び広がるようになった。
覚醒剤がもたらす多幸感や活力は数時間しかもたず、その後に長く抑うつ状態が続く。そのため、また欲しくなり、依存が強まる。そうなると幻覚や妄想、性格の変化などを引き起こす。現在では覚醒剤取締法によって所持・使用には10年以下の拘禁刑が科せられている。