GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が現在の東京都豊島区東池袋に設置した、日本の戦争犯罪人収容施設。「スガモプリズン」とも表記される。
1946年1月、連合国最高司令官マッカーサーが極東国際軍事裁判所を設置。連合国軍の判断に基づいて日本の戦争指導や一般の戦争犯罪を裁く極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が始まる。その容疑者や被告、受刑者を収容したのが巣鴨プリズンである。
侵略戦争や国際法・国際条約違反を計画し、遂行した罪を指す「平和に対する罪」に問われた「A級戦犯」の28人の被告と約60人の容疑者、捕虜や民間人への虐待・虐殺などの戦争犯罪や迫害を行った「BC級戦犯」など、13年間で延べ約4000人が収容された。A級戦犯は政治家や将軍たちが中心で、BC級戦犯は下士官や下級将校が多かった。
この場所に「巣鴨監獄」が建設されたのは1895年(明治28年)。後に巣鴨刑務所となり、関東大震災後には未決囚を収容する東京拘置所となった(刑務所は府中に移転して府中刑務所に)。1945年9月、GHQがこれを接収。翌10月には周辺住民を強制退去させて施設を拡張し、11月に巣鴨プリズンとした。運営はアメリカ第8軍憲兵司令官が行った。
巣鴨プリズンでは死刑も執行された。最初に死刑となったのは1946年4月に捕虜殺害の罪で有罪となった陸軍中尉だった。1948年12月23日には東条英機や板垣征四郎らA級戦犯7人が巣鴨プリズンで絞首刑に処された。翌日、GHQは裁判の終了を宣言した。その後もBC級戦犯への死刑の執行は1950年4月まで続いた。巣鴨プリズンで死刑に処されたのは合計60人。多くは捕虜虐待に関わるものだった。
巣鴨プリズンでは、ほとんどの収容者には労働が課せられ、自動車修理や施設内の設備工事といった専門分野から、清掃、草むしりなど一般的なものまで、38種類の労働に振り分けられた。同時に、各棟ごとに「世話係」が選ばれて、自主管理が取り入れられた。
1948年6月には、収容者が自分たちで作って読む「すがも新聞」が発行され始めた。収容環境をめぐる情報や、車中から見えた街の様子が熱心に読み込まれ、獄中生活をユーモラスに描いた漫画が笑いを誘った。急速に変わる外界について論じるコラムもあった。特に仲間の出所や減刑の知らせに読者の注目が集まったという。
アメリカとソ連の対立が激しくなり、アメリカの占領政策がそれまでの民主化、非軍事化から転換し始めると、巣鴨プリズンの様子も変わってくる。減刑が増え、また、収容者たちの自由が認められるようになる。中庭はスポーツができるグラウンドに整備され、300人が収容可能なホールが建設された。ホールでは映画が上映され、渡辺はま子や淡谷のり子、美空ひばりといった人気歌手や柳家金語楼のような落語家や浪曲師も慰問公演を行った。
1952年4月、米軍の占領統治の終了に伴い、巣鴨プリズンは日本に移管されて「巣鴨拘置所」に戻った。監督権は引き続きGHQにあったが、収容者の一時外出や、さらに外で就職することが認められ、所内から出勤することもあった。減刑放免が進み、1958年、BC級戦犯18人の釈放をもってすべての戦犯の収容が終わった。
その後、巣鴨拘置所は一般犯罪人の収容施設になり、さらに主に刑事被告人を収容する「東京拘置所」となった。池袋が繁華街として発展してくると、周辺住民から撤去を求める声が高まり、1971年には東京拘置所は小菅に移った。
巣鴨プリズンがあった場所には、現在は高層ビル「サンシャイン60」が建っている。1980年、そのわきの東池袋中央公園に、巣鴨プリズンをしのび「永久平和を願って」と刻まれた碑が建立された。