ところが、1990年代後半に入ると、「心の時代」という言葉がポピュラーとなり、多くの人が「心を診る医者、精神科医ってすばらしい仕事ですね」などと今度は必要以上に持ち上げてくれるようになった。ただ、「心を治すのにクスリや検査なんかは不要ですよね」などと、“精神医学は近代医学とは別のもの”と思っている人も少なくなかったようだ。その頃はすでに脳科学が精神医学の大きな柱になっていたので、「心の治療に科学はいらない」と一般の人に言われると、複雑な思いがしたものだ。
そして、ここ数年は、人々の関心は心から脳へ、と急速に移りつつある。かつては、「心の病は、心のとても深いところが傷ついて起きる」といった言い方が支持されていたのに、今では「心の病は脳の傷、故障なのだ」という主張のほうが好まれているようだ。
病気の理解だけではない。最近のベストセラーには、必ずと言ってよいほど、「脳を使ったノウハウ本」が入っている。仕事、受験勉強、英語の学習ばかりではなく、恋愛や結婚、投資などまで「脳を活用すればうまくいく」と言われると、「これって本当に科学なのだろうか」と首を傾げたくなってしまう。
それにしても、なぜここまで“脳ブーム”が過熱しているのだろうか。もちろん、その最大の理由は最近の脳科学の目覚ましい進歩だ。かつては脳は謎の器官と言われていたが、今ではどの部分がどんな機能をつかさどっているか、私たちの感情や思考は脳のどんな回路の働きで生じるのか、かなりのところが明らかになってきた。その最新の科学の知見が、早速、私たちが読めるような一般書にも紹介されるのは、とてもよいことだと思う。
しかし、科学の進歩だけが脳ブームの理由ではないだろう。脳は、心に比べると取り出しやすく、目に見えやすいものだ。自分の中にありながら、自分の意思だけではコントロールできない心臓や腎臓と同じ臓器でもある。たとえば、長いあいだうつ状態にある人が、「それはあなたの子ども時代の思い出と関係があるようです」と言われると、その人はいやでも自分だけの過去と向かい合わなければならない。
それが、「うつ状態は、脳のこの部分でセロトニンの流れが悪くなって起こるのです」と言われて、撮影したMRIの脳画像などを見せられると、とたんにうつ状態の何割かは、自分のものではなく“脳のもの”になる。「そうか、私のせいじゃなかったのか」とほっと安心する人も少なくないだろう。
勉強にしてもそうだ。あなたの努力にすべてがかかっている、と言われるより、「脳のこのあたりをこう刺激して」と言われると、半分くらいは責任から解き放たれる。
つまり、「脳」と言われると、それだけで人は「私のせい」という罪悪感からも、「あなた次第」というプレッシャーからも、かなり解放される。「そうか、脳のここをこう変えてやれば問題は解決するのか」と、半ばひとごとのように眺めながら問題を解決して行ける。こういった心理的な効果が、この“脳ブーム”の最大の理由なのではないか。
“脳ブーム”は一種の逃避だ、などと批判したいわけではない。しかし、これまでは「目に見えない心こそ大切」と言っていた人たちまで、てのひらを返したように「脳から科学的に心を分析せよ」と言い出すのは、やはりちょっと不自然なような気がする。人の心はすべてが理解不能の神秘的なものでもなければ、すべてが脳科学で明らかにされるものでもない。「どちらでもない」というあいまいさを、私たちは受け入れられるようにしなければならないだろう。