なぜ、世襲議員は問題なのか。そもそも親の地盤をそのまま受け継ぎ、票を獲得して当選、というのは民主主義の基本に反している、という声もある。逆に、「歌舞伎役者などみな世襲じゃないか。子どもの頃から親の姿を見てきた二世、三世だからこそ、安心して政治もまかせられる」という意見も聞こえてくる。ただここでは本質的な政治論はせずに、ちょっと違った観点からこの問題を見てみたい。
違った観点、それは親の仕事を受け継ぐ子ども側の意思の問題だ。親がある特殊な仕事についていて、小さな頃から「あなたも大きくなったら後を継ぐんだよ」と言われて育った場合、その子どもはどういう気持ちになるのだろう。あの『巨人の星』の星飛雄馬は、野球選手になることを強制する父親に激しく反発し、結局、後にふたりは別々の球団で敵味方に分かれて戦うことになる。「野球の世界で父ちゃんに勝ち、見返してやりたい」というその飛雄馬の気持ち、これぞ精神分析の父フロイトの提唱した父子のエディプス・コンプレックスだ。
飛雄馬の場合、それでも父親の願望を実現して野球選手にはなったが、親への反発が大きすぎてまったく違う世界へと進んだ息子、娘たちも少なくないだろう。財界人の息子がミュージシャンに、官僚の娘が前衛画家に、といった話は、昔からよく聞く。
ところがどうも、最近の息子、娘たちはみな心やさしいのか、「さあ、私と同じ仕事につきなさい」と勧める父親の言うことに何の疑問も持たずに、すんなり世襲を受け入れるようだ。つい最近も、大物芸人と大物女優の娘がタレントとしてデビュー、いわゆる“親の七光り”を存分に利用して脚光を浴びていた。二世作家や二世騎手などもめずらしくない。星飛雄馬のように、息子は政治家になったものの親とは別の政党に入り、父子で激しい政治論戦、といった話もまず聞かない。
昔から、自分が築いてきたものを子どもに引き継いでもらいたいと願う親は多かったはずだから、最近の“二世ブーム”の背景にあるのは、やはりこの子ども側の変化と言えるのではないだろうか。ひとことで言えば、エディプス・コンプレックスが弱体化したのかもしれない。
もちろん、自分の後を継いでほしい、と願う親に従う素直な子どもが増えたことじたいを、とやかく言うことはできない。とはいえ、古代から延々と人の心の奥で息づいてきたエディプス・コンプレックスが、こうもあっさり消えて行ってよいものか。それは時には親子を悩ませ、さまざまなトラブルの原因にもなってはきたが、同時に子どもに「親を打ち負かし、乗り越えるたくましさ」を与える原材料にもなったはずだ。
「大きくなったらお父さんみたいな○○になりたいな」と最初から何の疑いもなく口にする子どもたちに、はたして親をしのぐような実力や柔軟さ、打たれ強さは身につくのだろうか。また、親たちも「ウチの子は本当によい子だ」と目を細めていてもいいのだろうか。上品さや善良さは漂っているものの、今ひとつ線の太さは感じられない世襲議員や議員候補の顔を見ていると、なんだか心配になってしまうのである。