また、被害者がけがをして医療機関で治療を受けるような激しい暴力も増えており、感情を抑制できずに突然“キレて”、結果的に相手にけがを負わせている、という実態も浮かんだ。
「学校での暴力」と聞くと、尾崎豊に心酔した世代は「ああ、先生に向かってついこぶしを振り上げてしまうんじゃない?」と思うかもしれないが、そうではない。子ども同士が3万2000件強で、対教師の3倍以上に上っている。
では、なぜ子ども同士が互いの感情をうまくコントロールできない、という状況に陥っているのか。原因分析についての議論はさまざまで、「ゲームなどで攻撃的な感情をむき出しにしすぎるから」と言う人もいれば、逆に「日ごろ、感情を十分に表現する機会がないから、たまったものが爆発する」と言う人もいる。こんな話を聞いていると、保護者や教師としては、「格闘ゲームでもやらせてストレス発散させたほうがいいの? それとも、そういうことが実際の暴力を招くの?」と混乱するのではないだろうか。
私自身は、この「感情のコントロール」という問題は、自分への信頼感、肯定感という問題と密接に結びついているのではないか、と考えている。「泣けばなんでも思い通りになる」という万能感で肥大した幼児の心は、自分を映し出す鏡のような大人たちがまわりにいることで、次第にその形を修正していくことができる。泣いたり感情のままに大声を出したりしなくても、きちんと言葉で説明すればまわりの人たちが自分を理解し、受け入れてくれる。そうした体験を積み重ねれば、子どもは「なんでも自分の思い通り」という万能感を安心して手放すことができるのだ。
そう考えれば、すぐにキレて周囲を暴力で制圧しようとする児童や生徒というのは、幼児期の万能感をそのまま引きずっていると考えられる。そしてそれは、しつけがなってないからでもゲームのやりすぎだからでもなくて、「自分をでっかく見せなくても、そのままの等身大のあなたでいいんだよ」と思わせてくれるような大人がまわりにいなかったから、なのではないだろうか。虚勢を張り、大声や暴力で自分を主張しようとする若い患者さんは、本当は自分で自分を肯定することができない。こういったケースは、診察室の中では日常的に目にする。
だとすると、暴力的になりがちな児童や生徒に必要なのは、厳罰だけではない、ということになる。もちろん、毅然とした態度で「それはいけない」と伝えることは重要だが、一方で、彼らが未熟な万能感にしがみつかなくても、安心して等身大の自分でいられるような環境を整えられるよう、周囲の大人たちは力を尽くすべきだ。その子どもに「だいじょうぶ、それでいいんだよ」「私はいつもあなたのことを見ているから、失敗をおそれずにやってごらん」、そんな言葉をかけてあげる大人がいるかどうか、もう一度、考えてみる必要がある。
「場合によっては警察への通報も辞さないで」「日ごろからパトロールを頼んだらどうか」といった意見もあるようだが、子どもたちの“聖域”であるはずの学校現場に、警察が日常的に出入りするようになるのは、やっぱり寂しい。キレる子どもをどうするか、というより、子どもがキレなくても安心してすごせる環境を作れ、などと言ったら、「甘すぎるのではないか」と怒られてしまうのだろうか。