このように今や少しもめずらしいことではなくなったがんだが、いざかかると、その身体的、心理的苦痛はやはり相当なもの。
そして、あまり声高には語られていないが、多くの患者や家族が経済的負担に悩むことになる。『がん患者、お金との闘い』(札幌テレビ放送取材班著 岩波書店)という本に描かれているその生々しい実情は、一般の人にとってはほとんど知らないことばかりだろう。
健康保険の自己負担には上限があり、所得に応じて一定額を超えた分は「高額療養制度」により払い戻される。しかし、入院の場合は払い戻しはすぐに行われるが、通院治療の場合は3カ月後。そのあいだは治療費を立て替えなければならない。がんの場合は、一定期間ごとに抗がん剤をかえていかなければならないことが多く、しかも、新しい抗がん剤になればなるほど、その価格は上がる。この“増えていく3カ月間の立て替え”に耐えられなくなり、治療を中断する患者さんも少なくないという。まして保険扱いにならない「最新治療」と呼ばれる治療の中には、重粒子線治療のように300万円もかかるものもある。
さらに、最近、流行のがん保険も、通院治療まではカバーしてくれないものや、再発の場合はぐっと支給額が減るものなどもあり、せっかく加入していたのにほとんど使えなかった、ということもあるようだ。そしてもちろん、一家の大黒柱ががんで倒れたときは、家族の暮らしそのものが立ち行かなくなる。
このように、今では誰もがかかり、誰もが経済的問題に直面しているはずなのに、がん患者やその家族に対する公的支援のシステムは、日本ではまったく整えられていない。都市部と医療過疎地との地域格差も深刻だが、それ以上に残酷な「お金に余裕のある人は存分に最先端の治療を受けて延命をはかり、そうでない人は早々に治療をあきらめ、家族の生活も困窮」という経済格差が、“仕方ないこと”と容認されてきたのだ。
なぜ、このような事態になっているのか。冒頭に紹介した本の中では、先天性の障害などと違い、がんは生活習慣などが原因の自己責任の病と見られがちなこと、そしてがん患者の側にも「自分の延命のために高度な医療を享受するのは…」という負い目があることなどが、その理由としてあげられている。
さらに、最近の国民医療費高騰のニュースも、がんに限らず病気になった人たちへのプレッシャーになっている可能性がある。ただ、これも繰り返し伝えられていることだが、日本の医療費は国際比較で見ると決して多くない。2007年のGDPに対する比率で見ると、OECD加盟30カ国中、21位だ。
好んでがんになる人はいないし、生活習慣との関連もいまだにはっきり特定されているわけではない。どんなに食事や運動に気をつけていても働き盛りの年齢でがんが発症することは、誰にも起こりうることなのだ。資産や地位がある人が「もっとほしい」と貪欲(どんよく)になるのは許されるのに、病気になった人が「もっと生きたい」と願うのはぜいたく、わがままとされる。よく考えれば、こんなおかしいことはない。
不運にしてがんを発症してしまった人たちやその家族は、後ろめたさなど感じずに、「お金の問題、なんとかして」ともっと声を上げてもよいのではないだろうか。冒頭の『がん患者、お金との闘い』の“主人公”、大腸がんを患いながら患者会を結成して議会などで発言し続けた女性は、本書発行直後に闘いを終えて命を閉じたそうだ。その遺志が受け継がれていくことを祈りたい。