いったい誰がワールドカップ中継を見ているのか。もちろん、サッカーファンたちが、世界最高の技術や戦略を楽しみに見るのはあたりまえだ。ただ、日本のサッカーファンは最近、減少傾向にあり、Jリーグの観客動員数も苦戦続きという報道がある。ということは、ふだんはサッカーにあまり興味はない、という人まで「ワールドカップなら」と見ているということなのだろう。
では、なぜ「ワールドカップなら」なのだろうか。さまざまな理由はあると思うが、そのうちのひとつに、実は「今は誰にとってもしんどい世の中だから」というのがあるのではないか。いまの日本社会、景気はやや上向きとはいえ、「生きやすい世の中になってきたな」と思っている人はおそらくほとんどいないと思われる。雇用は不安定、医療や年金も心配、非婚化に少子化、うつ病の増加、解決しない基地問題などなど、明るい材料はほとんどない。しかも、入れ代わり立ち代わり新しい首相が出てきても、これといった決定的な道は示されない。お隣の中国の躍進を見ながら、「もう何をやっても無駄なのか」と無力感にとらわれている人も少なくないだろう。学者たちが提案するデフレ対策、経済成長戦略なども、複雑すぎてどれが正しくてどれが間違っているのか、素人にはよくわからない。
そんな中、行われているワールドカップ、国どうしの争いとはいえ、サッカーという競技じたいルールはとてもシンプルだ。相手ゴールにボールを蹴り込めば、どんな場合でも1点。勝敗も「1対0」とか「2対1」など、ごくわかりやすい。細かい作戦やルールまでは理解できなくても、「いまだ、シュート!」と応援することもできれば、ゴールが決まれば「やったー!」と喜びを炸裂(さくれつ)させることもできる。
つまり、不透明感や閉そく感が強い時代であればあるほど、現実を忘れてサッカーの世界にひととき集中し、選手たちの闘いに自分のモヤモヤした心理を投影させ、ゴールや勝敗でカタルシスを得たい、という欲求が人々の中で高まるのだ。そういう意味で、今回のワールドカップは、まさにいまの日本にうってつけのタイミングで行われたと言ってもよいだろう。
逆に考えれば、サッカーに誰もが熱狂する社会というのは、もしかするとそれだけでストレスや欲求不満がたまっている、ということの反映にもなる。そう考えれば、「いやあ、サッカー人気、盛り返してるね」と単純に喜ぶことはできないかもしれない。
そして、問題はワールドカップ後。日本では参院選という大事な選挙が控えているが、ワールドカップの虚脱感で「選挙?それなに?」となりはしないか、今からちょっと心配だ。菅内閣の支持率も“ご祝儀”の時期が早々に終わって下降しつつあるが、「もう政治になんかまったく関心が持てない」という無力感が、ワールドカップ後の日本に広まったまま参院選がやって来るのは非常に危険なことだと思う。
ワールドカップの熱戦でおおいに盛り上がり、日ごろのモヤモヤを吹き飛ばしたら、あとは気持ちを切り替えて選挙に集中。そんなに都合よくはいかないかもしれないが、ぜひともそうなってほしいものだ。