いま問題になっている高齢者は100歳以上だが、もっと年齢が下でも似たようなケースはいくらでも出てきそうだ。ニュース番組の司会者や解説者は、「家族のきずなが失われていることですね」と、この背景を分析してみせる。
たしかに家族の結びつきが希薄になっているのが、今回の問題の原因になっていることは間違いない。ただ、昔はそんなに家族どうしが緊密な愛情で結ばれていたのか、というと、それも違うような気がするのだ。
とくに親子、きょうだいのあいだは、子どもの数が多かったこともあって、今より疎遠だったことを思わせるような話もよく聞く。「上の兄や姉とはほとんど口をきいたこともない」「10人のうちふたりは養子に出した」「病気で亡くした子もいるけれどみんなそうだったから」などなど。
ただ、「祖先や祖父母などの高齢者は大切にしなければ」という意識は今より強かっただろう。とはいえ、それにしてもベースにあったのは愛情だけではなく、「とにかくそうすべき」というすり込みや外圧も大きかったものと思われる。そして、さらにその背後には、「高齢者を敬わなければ自分の代に悪いことが起きる」というおびえや不安もあったのではないだろうか。
高齢者とは関係ないが、古くから日本で口にされることばに、「親の因果が子にむくい」というのがある。親と子は本来、独立した存在であるはずなのに、親の起こした不始末がその子の人生にまで及ぶ、というわけだ。これは、「親子はあらゆる意味で一体」と考える日本に独特な誤認に基づくものだ、と寺山修司はその昔、エッセーで解き明かした。つまり、いまは美談として語られる親子や家族の固い結びつきは、「たたられないように」「因果がわざわいとして降りかからないように」という恐れの感情に裏打ちされていた可能性もあるわけだ。
それから時間が流れ、「祖先のたたり」や「親の因果」を信じる人は少なくなった。「家族はとにかく一体」ではなく、独立したそれぞれの人格で構成される共同体であるという考え方が一般的になってきた。その変化じたいは肯定的に評価されるべきものであったのだが、いつのまにか「それぞれが自分のことだけで精いっぱい」という事態にまで追い込まれ、そして家族の中の高齢者やあまり連絡を取り合う必要がない親族への関心が薄れざるをえなかったのではないだろうか。
それを、「昔あった家族の情がなくなった」と単純にとらえて、「かつてのきずなを取り戻すべき」と言ったところで、なにかが変わるわけではない。「家族から不明者が出たりしたら呪われますよ」と呪術的な価値観を復活させるわけにもいかない。
個として生きることと、家族などの小さな共同体の一員として生きること。そのほど良いバランスはどのあたりにあるのか。答えがすぐに出るわけではないが、いずれにしても「どちらか一方だけを徹底的に実現した社会」が、生きやすい、暮らしやすいものではないことは確か。ひとりひとりが十分、自分らしくのびのびと生きる。でも、お互いにゆるやかに結びつき、「お父さん?さあ、20年くらい連絡取り合ってないから、どこにいるんだか…」などということにもならないようにする。その双方が成り立つ点が、必ずどこかにあるはずだ。