こういう話題が出るたびに、誰もがつぶやく。「終わることが決まってここまで惜しむなら、もっと前から行けばよかったじゃないか…」。たしか大阪・道頓堀の“食いだおれ人形”で有名な食堂が閉店するときも、同様のことが起きたはず。ほかにも「あの店もそうだった」といった話はいくらでもある。
心理学では、「なくなると決まると急に惜しくなる」という人間の心理を、「閉店時刻効果」と呼んでいる。そこにあるのがあたりまえ、というときには、それほど関心もなかったものが、「いつまででおしまい」と期限が決まったとたん、たまらなく魅力的に見えてくる。そして、「まだ続けて」と惜しむ気持ちになってきて、存続を願ったり買い物などに訪れたりするのだ。
これは、店やホテルだけではなくて、人づき合いでも同じこと。生別でも死別でも、「失ってはじめて、得がたい人であったことに気づいた」というのは、私たちの人生でいくらでも起こりうることだ。
だとしたら、その店なり人なりがあたりまえのようにそこに存在しているときから、そのありがたみを感じて、それをもっと大切にするべきだ。ところが、それができないのが、また人間。だからこそ、閉店セールはどこでもかくもにぎわう、というわけだ。
では、そんな私たちに、日ごろから何かできることはあるのだろうか。いつも「もし、あの人に会えなくなったとしたら」と想像するのはむずかしいにしても、「けんかしたりうっとうしくなったりすることもあるが、それもいてくれるからこそなのだ」ということくらい自覚して、もう少し身の回りの人やモノ、店やホテルなどに愛着を感じることはできないものだろうか。
おそらくそれはむずかしいだろうが、「赤プリ取り壊しへ」といったニュースを目にしたときに、「私にとって大切なもの、失ったら寂しいものは何だろう」と生活をちょっと再点検してみる、というのはよいかもしれない。ブログを書いている人は、以前の記事を読み返し、「そうそう、このレストランに行ったよね。ここがなくなったとしたら…」と思いを馳せてみるのも効果的。このように何か現実の中にきっかけがないと、なかなか空想にリアリティーを感じられないのも、私たち人間の特徴だ。
話はやや変わるが、自民党の政治家たちも同じ思いなのではないだろうか。政権を失うことになってはじめて、「そうか、野党になるというのはこんなにもたいへんなことだったのか。だとしたら、もう少し考えて政権運営をしておけばよかった」と悔やんでいる閣僚経験者も少なくないと思う。
閉店が決まってから、あわてて「もっと続けて」と望んでももう遅い。もちろん、自分の人生にもなるべくそんなことが起こらないようにしたい。さらには、次にその思いを味わうのはいま政権を担っている民主党、などということにならないよう、2011年は真剣にしっかりとこの国を立て直してもらいたいものだ。