「昔からカンニングする学生はいたものだ。それが今はハイテク機器を使うようになった、というだけだろう」と思う人もいるかもしれないが、私自身、大学で入試監督を年に何度か経験する側としては、これは衝撃的なできごと。入試は大学で行われるいろいろなことの中ではもっとも厳密性が重んじられるものであり、担当の事務方も教員も細心の注意を払うことが求められている。私も例年の監督業務では、分厚いマニュアルを配られ、さらに必ず説明会を受けるように言われ、当日も繰り返し、注意事項を伝達される。
なぜ、そこまで徹底的に厳密に行わなければならないのか。それは、ひとえに「入試は公平でなければならない」という原則があるからだ。全員がなるべく同じ環境で、同じ時間、同じ条件で試験に挑む。「この教室はほかより3分おまけ」「このフロアは寒くて手がかじかんで鉛筆が持てない」などということがあってはならない。
もちろん、これはある意味で建前で、受験生が完璧に同じ条件のもとで入試を受けられるとは限らない。ある教室は道路に面しており車の音がするとか、ある教室はカゼを引いている受験生が多くてクシャミ、せきがかなり聞こえるとか。それくらいは「不可抗力かつ許せる範囲」として大学側も目をつぶっているのだが、最近はそれさえ「許せない、不平等だ」と抗議してくる保護者が少なくない、と大学関係者から聞いたことがある。
こう考えてくると、「カンニング」がなぜそれほどの問題かも、わかってくるはずだ。しかも、カンニングは不可抗力ではなく、意図的に行われるものであり、それをした学生だけが利益を得られ、ほかの学生が不当に不利になる。つまり「これほど公正性を損なうものはない」と大学側は考えるのだ。
さらに、今回は「年号を書いたメモをちょっと見てしまった」といった“できごころ”ではなく、かなり計画的な行為だ。さらに、質問サイトで何人かの力を借りて受験、というのも公正性とはほど遠い。
このように、この問題には入試の基本原則に反する要素がいろいろと詰め込まれているのだが、ただ、大学やマスコミが騒いでいるのはそれだけではないだろう。大学が考える「こういうカンニングがありそうだ」という想定を大きく超えたことが、簡単に行われたということ。しかも、受験生は情報技術をかなり知りつくしたいわゆる“IT強者”であった、ということも関係していると思われる。大学をはじめとした“おとなたち”が感じた心理的な敗北感はかなり大きかったはずだ。「入試制度に対する挑戦だ」などと深読みする人が多いのも、そのあたりに理由があるのだろう。
いったんこういうことが起きると、大学は神経質になって、いろいろな方法で「ハイテク・カンニング」を防ごうとするだろう。受験生たちを必要以上に“巨悪”と見なしてしまって、それに巨額の予算が投じられたり身体検査など人権を損なう方向に向かってしまったりするのは、あまり望ましくない。ひとまず冷静に事態を見守り、動き出すのは「またこういうことが起きそうなら」と再発の気配が認められた時点で十分だと思うのだが、「大学教員なのにそんなのんびりしたことでいいのか」と怒られてしまうだろうか。