書店でも、売れているのは防災関連、原発関連の書籍ばかり、という声を聞いた。ある編集者は、「しかも、その防災関連本にしても、印刷工場が被害を受けたりした関係で、増刷がむずかしくなっている」と苦しい事情を話してくれた。
震災の被害を直接、受けていなくても、首都圏では計画停電や節電の影響で稼働がむずかしくなっている工場もある。加えて原発事故による酪農家の出荷停止や風評被害で輸出がキャンセルになった問題など、経済への影響は考えるだけでめまいがするほどだ。
そんな中、被災地以外でも「自粛ムード」が広まっている。東京都では「花見の自粛」が呼びかけられ、都立公園の夜間照明やライトアップも中止に。ほかでも、イベントや祭りなども相次いで中止になっている。
もちろん、気分としての自粛ではなく、海外や被災地から参加する予定だった人が来られない、計画停電で開催できない、といった現実的な事情がかかわっている場合もある。とはいえ、「この時期それはちょっと」という理由で取りやめになっているものも多い。
そして、この自粛ムードに対する批判の動きも、早くも活発になっている。「自粛で日本経済は滅びる」「被災地以外では消費することが支援につながる」といった見出しを掲げた雑誌の記事も目立つ。
ここで、自粛は是か非か、と検討するつもりはない。先ほども述べたように、この自粛の背景は複合的で、単に感情的な問題でもなければ、「電力不足」といったひとつの理由によるものでもないからだ。
今回、指摘したいのはそのことではなくて、「自粛とその批判」がどこか予定調和的ではないか、ということだ。これだけの災害があると、「この時期、バカ騒ぎは不謹慎だよね」とお祭りを中止しようという声が出るのは当然だ。次に、ひとつそういう前例が出ると、「あそこも中止したのならウチも」と右へならえ、の動きが出てくる。そして、世間全体としての自粛ムードができ上がる。
するとその一方で、「自粛は形式的ではないか」「むしろ経済復興の足を引っ張るのではないか」といった声も、これまた予想通りに出てくる。それを主張する雑誌や新聞までが、ある意味で予想通り。「やっぱりこの雑誌は“痛みを共有しよう”で、こっちの雑誌は自粛批判か…あれ、こんな対立の構図は前にもなかったっけ?」とデジャ・ヴ感覚に襲われている人もいるのではないか。おそらく、こんな未曾有の事態に際しても、マスメディアは従来通り、粛々と“自分の役割”をこなしているだけなのである。
この役割分担は、それぞれの地域や企業でも同様なのではないか。ヒューマニストで知られる課長は「ハデなイベントはやめて、週末は静かに祈ろう」と言い、業績第一の部長は「こういう時こそ、ウチが抜き出るチャンスだ!」と“鬼のようなこと”を言う。しかしいずれも、予定調和の域を出ていない。
自粛か自粛批判か、ということは、実は大きな問題ではない。それぞれが、自分の感覚に従って行動の指針を決めればよいことだ。ただ、どちらにしてもそれが「社会全体」のムードとなって強制的な圧力になること、そして、「またこれか」といった予定調和的な議論になることは、今回こそはなんとしても避けなければならない。「これまでのやり方」では、とても乗り越えることがむずかしいほどの危機だからだ。