「栄養補給を中止」と聞くと「え、安楽死? 医療費がかかりすぎる高齢者の命を縮めようというわけ?」と抵抗を感じる人もいるかもしれないが、それとは意味合いが違う。たしかに、点滴や栄養補給をやめれば、口からそれらを取ることができない状態である場合、死を迎える瞬間はその分、早まることもあるだろう。しかし、逆に考えれば点滴や栄養補給で数日あるいは数カ月、命が長引いたとしても、それらの措置がかえって本人のためになっていない場合がある、というのが今回の指針案の考えなのだ。
とくに意識がない人や高度の認知症で寝たきりになっている高齢者に「胃ろう」と呼ばれる、胃に通じる穴を腹部にあけて、そこから直接栄養を補給する方法に対しては、医療関係者や介護職、さらには家族からも疑問の声、反対の声が上がりつつあった。たとえば私の友人の医師は、あるとき自分が勤務する病院の光景の異様さに気づき、愕然としたそうである。ベッドに横たわってひとことも発しない高齢者たちの「胃ろう」に、看護師が次々とパックをつないで機械的に栄養剤を入れて行く様子を見て、「これではまるで工場のよう」と思った、と言うのだ。「生き生きと仕事したり生活したりしていた頃とは似ても似つかぬ姿で長い終末期をすごすことになるのは、その人の尊厳を傷つけるだけなのでは」と感じてしまった彼は、その後、病院勤務をやめ、在宅医療のサポートをする診療所を開設した。
終末期の延命治療は、その人の尊厳を奪うばかりではない。身体的な苦痛にもつながるのでは、という声がある。「口から入れられないなら、点滴をしてあげたほうが本人もラク」という従来の常識に、疑問を投げかける声もあるのだ。特別養護老人ホームの常勤医をつとめる医師、石飛幸三氏は、その著書『「平穏死」のすすめ』(2010年 講談社)などで、むしろ過剰な点滴などが終末期の高齢者の心身に負担を与え、苦痛を招いている可能性がある、と指摘する。石飛氏によれば、終末期では若い人にするような何千cc、何千キロカロリーもの水分や栄養はいらず、食べられなくなったらあとは文字通り枯れるように最期を迎えるのが、本人にとっての苦痛もいちばん少ないとのこと。「先生、とにかく点滴をお願いします」と頼むのは、本人のためではなく、やせ衰えていくのを見るのがつらい、という家族側の気持ちに基づく場合が多いのだ。
もちろん、家族の中には「どんな状態でもいいから一日でも長く生きて」と願う人もいるだろう。また、本人が意識がしっかりしているときには「無用な延命治療はやめて」と言っていた場合でも、自ら判断できない状態に陥ったときに同じ気持ちなのかどうか、と家族としては悩むところだ。さらに医師は、医学教育の中で「医療の力で命を救うのが医者の仕事」と徹底的に教えられるため、「このあたりで高カロリーの点滴はやめましょうか」と医療から“撤退”することがきわめてむずかしい。医者によっては、「医療の中止、それは敗北だ」と考える人すらいる。
日本老年医学会は、この問題に関して広く意見をつのり、2012年の夏ころまでにはきちんとした指針の形にまとめるのだという。答えは「延命治療をどんどんやろう」でも「いっさいダメ」でもなく、「人それぞれの考え方を大切にすること」にしかないのだが、このあたりで私たちはこの問題について、それこそ老いも若きもおおいに議論してみる必要があるのではないだろうか。