なぜ世界にも日本にもこれだけ多くの経済学者がそろっていながら、実際の経済を良くすることができないのか。これは、多くの人にとって長年の疑問なのではないだろうか。私も同じだ。たとえば、私がいる医療の世界では、「医学の研究は進んだけれど、患者さんの治療は一向に進歩しなくて」などということは許されない。それに対して経済学は、実際の経済活動のためにあるのではなく、現在のところはあくまで「理論」として研究されているようだ。
経済学がなかなか実践に役立つものにならない理由のひとつに、何といっても経済の担い手が「人間」ということがあるだろう。株価を見ていても、それは具体的な理由によってではなくて、株式市場全体で何らかの不安が高まれば下がるし、不安が払拭されれば上がる。誰が号令をかけているわけでもないのに、「今日は不安な日」といった集団心理が自然に決定していくのが読みづらいところだ。
もちろん、経済学も「人間」をまったく無視していたわけではないのだが、古典的経済学ではそのモデルになっているのが、なんと「完全合理性を備えたホモ・エコノミクス(経済人)」。しかし、誰もが経験的に知っているように、完全に合理的、客観的に振る舞える人間など、この世には存在しないと言ってもよい。100億円以上をカジノで使ったと言われる製紙会社の御曹司ほどではないにせよ、私たちの毎日は「あれ、どうしてこんなもの、買っちゃったのかな?」「なぜあそこでイエス、と言えなかったのだろう」などと、自分の非合理性、不確定性に自分でも驚いたりあきれたりすることの連続。
そこまででなくても、たとえば、「コーヒーにします? それとも紅茶に?」ときかれて、一瞬で「今日は紅茶、レモンで」などと答えるときの意思決定メカニズムさえ、合理的に説明することは不可能だ。つまり私たちは、自分でもその出どころがわからない“気分で動く生きもの”なのだ。
最近は、経済心理学や行動経済学といって、前提を「経済人」に限定せずに考える経済学にも注目が集まりつつある。とはいえ、そこでもやはり「なんでもあり」ではなくて「人間が示す合理性の破綻には一定の法則性がある」というのが前提とされている。「得しようとする」「お金がほしいと考えている」といった基本は、変わらない。しかし、私たちはあえて損をする道を選んでしまうこともあれば、お金なんて必要最低限でけっこう、と思っている人も意外に多い。例外やバリエーションは、決して誤差範囲ではすまないほどだろう。
このように、とくに消費やファイナンスでは、人は十人十色。さらに、こと「お金」がからんでくると、ふだんのその人とはまったく違う一面が顔を出すことも少なくない。とても、行動経済学が前提とするような単純な法則では、人の経済活動を解釈したり予測したりはできないのではないか、と私は考えている。
しかし、それでは感情の暴走にまかせて、世界の経済はますます混乱するばかり。すべてを市場に委ねておけば、「神の手」が働いてなんとかなるはず、という前提そのものがどこか間違っている気がするのだが、それでは資本主義じたいを否定することになるのだろうか。来年は精神科医としてもう少し「人と経済」について考えてみたいというのを、私のささやかな「元旦の計」にしたいと思っている。