「震災婚」という言葉も流行語になりかけた。大災害を経験して「大切な人にそばにいてほしい」と願う人が増え、デパートの指輪売り場に婚約指輪を求める若者が押しかけている、といったニュースを目にした人もいるだろう。
しかし、あれから1年がすぎて目につくのは、むしろ「絆の分断」ではないだろうか。
たとえば、いま社会的な話題になっている被災地のがれき処理の問題。政府は基本的に、日本中の自治体で引き受け、処理してほしい、という考えだ。ところが、それに対して難色を示す自治体が多く、実際には処理はほとんど進んでいない。費用が膨大にかかる、施設がない、というのもその理由だが、何より住民らが放射性物質をはじめとする有害物質の拡散を恐れている。被災地でも受け入れ先でも放射線量などは測定ずみだと言っているが、それでも納得できないという声が大きい。
その一方で、受け入れに反対している住民や自治体に対して、そのことを強く批判する動きもある。「あんなに“絆”と言っていたのだから、がれき処理の厄介さもみんなで分け合うべきじゃないか」「事前の計測で有害物質は含まれていないことがわかっているのに拒否するのは、ただの感情論」といった声が、ネット上などで飛び交っている。
また、たしかに「震災婚」も増えたのかもしれないが、「震災離婚」も明らかに増えているという。とくに放射性物質に対する危険性の認識の違いが深刻で、私の診察室でも「無神経な夫を許せない」「夫を関東に残して、私と子どもたちは九州の実家に帰ることにした」といった話をいくつも聞いた。同じ学校、職場、地域でも、見解の異なる人たちのあいだで衝突が起きることがある。
私も「危険を煽りすぎるような情報に気をつけて」といった文章を発表したら、親しい知人などから「いま必要なのは警戒を促すことなのに、あなたがそんなことを言うとは失望した」というメールを何通かもらった。その中には、そのまま交流が途絶えてしまった人もいる。「みんなの健康を考えたい」という気持ちは同じなのに、ちょっとした表現や姿勢の違いにより「絆」が強まるどころか、ズタズタに引き裂かれてしまったのだ。
震災1年を迎え、私たちはもう一度、あのとき「心をひとつにして、このたいへんな事態を乗り切らなければ」「好き嫌いといった個人の感情を抑え、まず被災地のために協力し合おう」と感じたことを、思い出せるだろうか。そして、「ちょっとあの頃の気持ちを忘れかけて、考えが違う人との差ばかり気にしすぎていた」と反省し、今こそ「本当の意味で“絆”を結ばなければ」と思えるだろうか。
昨年の後半あたりから、「絆」という言葉に押しつけがましさや暑苦しさを感じて、「“絆”と言われるのには抵抗がある」などと否定的なことを表明する人が増えている。たしかに「とにかく“絆”だ!」と強制され、何の反論も許されないというムードには、辟易した時期もあった。しかし、人々の見解が分かれ、「分断」「切断」が目立ちつつある今だからこそ、私たちは改めて「“絆”を大切に」と言ってみるべきなのではないだろうか。
ここで改めて本当に大切なことに気づくのか、それともこのまま個々がバラバラになって行くのか。大震災から1年たった現在、私たちは本当の意味で試されているのかもしれない。