誰もが知るセクハラも、いまだにときどき見られる。サークルで「洗濯は女性の仕事だ」と押しつけたり、先輩だからと後輩の女性にデートを強要したり。ゼミで共有しているパソコンの壁紙を女子学生が不快に感じるヌードグラビアにする、などというのも環境型のセクハラにあたる。
また、教員から学生へのアカデミック・ハラスメント、いわゆるアカハラもしばしば報告される。発表などがうまくできない学生を必要以上に罵倒したり、「もう大学をやめたら?」などと人格を傷つけるような言い方をしたり。教授が大学院生に「私の研究を手伝わなければ論文を通さない」などと自分の力をちらつかせて圧力をかけるのも、アカハラである。
それから、いまだになくならないのがコンパの席などで「飲め、飲め」と酒を無理にすすめるアルコール・ハラスメント、アルハラだ。これは急性アルコール中毒などの思わぬ事故につながることもあり、どの大学でも厳しく禁じているが、実際には低学年の学生は「先輩に“一気飲みだぞ”と言われたら、とても断れない」などと言っている。
キャンパス・ハラスメントで特徴的なのは、ハラスメントを行うほうは、自分が力や特権を持っていて相手を追い込んでいる、ということに無自覚なことだ。あるとき学生から、サークル内の先輩が威圧的で多くの後輩たちが苦しんでいる、という相談を受けて、その先輩と話したことがあった。しかし、その先輩学生は教員である私の前ではとても素直で、私との話の中では「サークル内の雰囲気を良くしようと、ウケをねらってちょっと大げさに言うだけ」と話していた。その言葉にウソがあるとは思えなかったが、たとえその学生はジョークのつもりで言ったことでも、体育会のタテ社会の中では「絶対の命令」に聞こえてしまうのだ。
アカハラにしても同じで、どの大学でも問題になった教員は、「学生のことを思って厳しく指導しただけ。もし言い方がきつく感じたら、そう言ってもらってよかったのに」と言う。ただ本人はそのつもりでも、教員がその学生に「単位を与える」という特権を持っている限り、学生は反論も何もできないだろう。
会社であれば、経営者と従業員、上司と部下という関係ははっきりしているので、上の立場の人間にはそれなりに自覚があるはずだ。ところが、大学は冒頭にも述べたように基本的には「自由」で「対等」な場だという建前があるので、とくにハラスメントをする側は「これが強制、強要、絶対的な命令につながる」という意識を持ちにくい。「イヤならそう言ってくれるはず」という気持ちのゆるみが、“言いすぎ”につながるのではないか。しかし、繰り返すように、大学の「自由」は見かけ上のものであって、実際には「先輩」「教員」はそれぞれ強みや特権を持ち、下からは十分「怖い権威」に見えているのだ。
私自身、教員としていつも「この言い方は、学生たちにとって押しつけになっていないか」と自分に問い、「もしイヤだったらそう言っていいんだよ」と口にするようにしている。おそらくそれでも「先生に言ったら単位、もらえないかも」と泣き寝入りしている学生もいるのではないだろうか。
自由な場であるはずの大学が、実は息苦しいハラスメントの場。そうならないように、何らかの力や特権を持つ人間は細心の注意が必要だ。