市の教育委員会がこの生徒が自殺した後に全校アンケートを実施したところ、15人が「(死亡した生徒が)自殺の練習をするように強制されたと聞いた」などと回答を寄せていたことが明らかになったのだ。しかし、その後、市教委は加害者とされる生徒への聞き取りなどを経て、「いじめはあったが、それと自殺の因果関係は判断できない」との見解を示し、調査を打ち切った。このアンケート結果についても「情報が正確ではない」という理由で公表されることはなかった。
そもそも、自殺という問題が起きたとき、その原因をひとつに絞り、因果関係を特定しようというゴールを設定することじたいが、大きな誤りだ。というより、それをゴールに設定した時点で、「この人たちは『わかりませんでした』とお茶を濁そうとしているのではないか」と邪推したくなる。
なぜ自殺の問題では、因果関係の証明がむずかしいのか。それは、そのことを証明できる唯一の人である本人が、もうこの世にいないからだ。
「原因はこれです」と言える人がいなければ、条件が厳密に整えられた科学の実験でもない限り、ひとつの原因とひとつの結果との関係を証明するのはきわめてむずかしい。たとえばもし数年後にがんが増加して、多くの人が「放射能の影響ではないか」と思ったとしても、科学者は「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」とあいまいな答えを口にするだろう。それは何も電力会社や政府からそう頼まれたからではなく、がんの増加には遺伝、食事、環境などなどさまざまな要因が複雑に関係しているので、原因をひとつに特定することはきわめてむずかしいのだ。結局は、「放射能は何らかの影響は与えていると思われるが、今回の増加との因果関係は明らかではない」という玉虫色の回答にならざるをえない。
これまでも自殺をめぐるさまざまな問題で、この「因果関係は特定できない」というフレーズが使われてきた。「職場でのいやがらせはあったが、それと自殺との因果関係は明らかではない」というように、「長時間の過酷な労働」「上司からのハラスメント」「夫婦間の暴力」そして今回のような「学校でのいじめ」などが、「被害者の自殺との因果関係ははっきりしない」と結論づけられてきたのだ。
だから、今回の問題でも、最初から因果関係の判定をゴールにしたのは、間違いであったと言わざるをえない。市教委や学校がやらなければならなかったのは、自殺の原因探し、犯人探しといじめと自殺との因果関係の証明ではなく、まずは「いじめがあった」と事実を認め、それじたい深刻なことととらえてくわしく分析することであった。なぜ起きたか、なぜ防げなかったか、今後の対策は…といった具体的な検討が重要で、「それと自殺との関係があったか、ないかをはっきりさせる」ことだけがすべての問題ととらえたことじたいに、“事なかれ主義”のにおいを感じてしまう。
もちろん、そこで加害者とされる生徒たちを責め立てても、ことはまったく解決しない。「先生が目をこらす」「命の大切さを教える」「厳罰化を進める」といった場当たり的な対策では、解決できない深い問題がいまの教育の現場にはあるということなのだ。いじめを行う側の心も相当、ゆがめられ追い詰められているのだと思う。なぜいじめたくなるのか。なぜ「いじめられてる」とSOSを出せないか。真剣に考えてほしい。