「こわれ者の祭典」は、今から10年前、新潟在住の月乃光司さんが中心になって始まった、「病気」の体験発表とパフォーマンスのイベントだ。「私は病気でどう苦しみ、そこからどう回復したか」をユーモアを交えたトークで語り、さらにその病気や体験に関係したパフォーマンスで表現する。表現手段は、詩の朗読、歌と演奏、お笑いなどさまざまだが、毎回、会場は笑いあり涙あり、独特の一体感に包まれる。現在は、メンバーの多くが住む新潟だけではなくて東京でも定期的に公演が行われ、その他、全国各地からの要請を受けて出かけたり、テレビの福祉番組に出演したりもしている。
興味深いのは、「病気」の種類や程度を問わないこと。うつ病、依存症、拒食症などのいわゆる「心の病」が中心なのだが、そのほかメンバーには筋ジストロフィーや脳性マヒなどの神経疾患、難病の人もいる。いまも通院、服薬を欠かせない人もいれば、医療機関からは卒業した人もいる。大切なのは、何らかの「病気」による「生きづらさ」を経験したことがある、という本人の認識なのだ。
もし、このイベントを医療関係者などの専門家が見たらどうなるだろう。ついそれぞれの人に正確な診断をつけようとしたり、疾病や障害の程度によって見方を変えたり、ときには「この人はこんなイベントに出たら病状が悪化するかもしれないから、やめさせるべきだ」などと、止めようとしたりするのではないだろうか。私はなるべく月乃さんらメンバーのやりたいようにやるという姿勢を尊重しようと思っているのだが、それでもときどきつい、「この人とこの人は、病気の質がまったく違うのに、それをひとくくりにして『生きづらさを抱える人』と言ってよいのか」などと考えてしまう。
社会学者の上野千鶴子さんと、障害者の自立生活センター「ヒューマンケア協会」を立ち上げた中西正司さんとの対談『当事者主権』(2003年、岩波新書)では、障害を抱えた当事者が、「自分のことは自分で決める」ことの大切さが繰り返し強調されている。専門家が率先して彼らが生きやすい社会を準備するのではなく、あくまで当事者が「自分のこと」として決め、それを実現するために専門家が手を貸す。そんな社会が望ましい、と中西さんらは訴えている。
そう考えれば、「こわれ者の祭典」の基本はまさに当事者主権主義。彼らが「この人たちも仲間だ」と思う人はどんどん取り込み、同じステージの上で自由に自分を表現する。
ただ、もちろんこの当事者主権主義には、「自己責任」というリスクも伴う。自分で決めたからには、たとえそれで失敗やミスがあっても誰のせいにもできない。自分たちで反省して、またプランを練り直す必要がある。「生きづらさ」を抱える人は、そこでさらに傷つくこともあるかもしれない。
そのことに対して、月乃さんは「場数を踏めばなんとかなる」と話す。もちろん「今日はうまくいかなかったな」と落ち込むこともあるが、それも何度も繰り返すうちに、「たいしたことないさ」と思えるようになってくる、というのだ。
専門家が余計な口出しをせずに、当事者に自分で決めてもらい、自由にやってもらう。専門家はむしろ、彼らに頼まれたときだけサポートする“臨時の黒子”に徹する。あるべき福祉の姿が、「こわれ者の祭典」ではたしかに実現されているような気がする。