この8月に訪れたときに、やや奇妙な光景を見た。民家のまわりに植えられた桜や柿などとおぼしき木が、真ん中あたりからばっさり切られているのだ。「これはなんですか」と地元自治体の職員に尋ねると、「住民が自分らで自主的に除染しているんです」という答えが返ってきた。
その地区は除染の対象になっているのに、作業はいっこうに進んでいないのだそうだ。そのため、子どもや孫を呼び寄せることもできず、いまだにそこに住む人の多くは高齢者なのだという。
「でも、夏休みなどには孫にも来てもらいたいでしょう。だから、おじいちゃんが草を抜き木を切り、“これで線量も低くなったから大丈夫だよ”と遠いところに避難している家族に言っているんでしょうね…」
子どもや孫のために、長年育てた草花をむしり取り、木を伐採している高齢者の姿を想像するだけで、胸が痛む。
「どうして除染が進まないんですか。人手や予算の問題ですか」ときくと、「それもあるけれど、一番の問題は、除染で出た土などの置き場所がないこと」という答えが返ってきた。いまは「一時的な置き場」ということであちこちに黒いビニールに詰められた土壌などが積み上げられているが、その最終処分場はまだ決定していない。また、一時置き場にしても物理的に限界が来ており、これ以上、廃棄物を出せない状態になっているという。
「いまも避難対象地域になっている村の人たちは、自分らのところが最終処分場になるのではないか、とたいへん心配しています。それを受けて、国は福島を除染廃棄物の最終処分地にしない、と閣議決定しましたよね。でも…」
福島復興のために尽力する知人は、顔を曇らせた。「国は“必ず帰れます”と彼らに言っているし、その人たちもふるさとへの思いが強いからこそ、それを信じて避難生活に耐えているわけですが、“帰れます”と安請け合いしていいのか。もし、まだ放射線量が高い時点で、帰村宣言などが出されてしまった場合、健康被害は本当にないのか。それよりも、断腸の思いで元いた場所には帰れないことを伝え、場合によってはそこを除染廃棄物の置き場にし、とにかくいま人がいる場所の除染を猛スピードで進めるべきではないでしょうか。いえ、これは極端な意見だということはわかっているんですけど…」
孫のために自ら木を切り、「夏休みはふるさとに帰ってきて」と訴える人。「いつかは絶対ふるさとに帰れるはず」と信じ続け、避難生活に耐える人。この「ふるさとへの思い」が、その人たちを支えながら、同時につらい状態にも追い込んでいるのではないか。
英語の「ノスタルジア(郷愁)」という言葉は、ギリシャ語の「nostos(家へ帰る)」と「algia(苦しい状態)」をくっつけたものといわれる。これを考え出したスイスの医師は、ヨーロッパの戦地からふるさとを思って体調不良に陥っているスイス人の傭兵たちを見て、病名としてこの用語を作ったのだそうだ。
「ふるさとへの思い」は病気だ、などと言いたいわけではないが、少なくとも国が人々の思いの強さにつけこんで、「いつかは帰りたいでしょう? 大丈夫、そのうち帰れますよ」などと結論を先延ばしすることだけはあってはならない。オリンピック招致決定に浮かれる今だからこそ、福島の人々の複雑な状況に再度、目を向ける必要があるはずだ。