首相が書状を贈る理由について、菅義偉官房長官は「勇気ある行動をたたえる」「他人にあまり関心を払わない風潮の中で、自らの生命の危険を顧みずに救出に当たった行為を国民とともに胸に刻みたい」と語った。
私も、この女性には限りない尊敬の念を感じずにはいられないが、報道の仕方と政府の対応には若干の違和感を覚え、いくつかのメディアで発言した。
その理由のひとつは、「女性の行動を美談にすることで、大切な問題が見えなくなる恐れがあるのではないか」ということだ。助けられた男性は警報が鳴っているのに踏切に侵入し、線路にからだを横たえたという。一部では自殺目的だったのでは、と報じられた。踏切の遮断機の多くは、簡単にくぐれる構造だったり、横に人が通れるすき間があったりする。保安上の理由によりそうなっているのだとは思うが、逆にそれが人の侵入を可能にもしている。自殺企図だけではなく、これから高齢者がますます増加する中、足元がおぼつかないのに「まだわたれる」と遮断機をくぐる人、認知症により判断力が低下してすき間から入る人への対策も必要なはずだ。
また、遺族や友人なども「美談」として賞賛されすぎると、悲しみを表出できなくなるのではないだろうか。世間からすれば尊い話であっても、身内にとってみれば大切な家族を亡くしたことにはかわりない。ときには相手を恨み、ときには悲しみに暮れ、と感情は大きく揺れ動いて当然なのに、「すばらしい娘さんですね」と世間から賞賛の大合唱が聞こえてきてはそれもできない。そうやって「みんながほめてくれるのだから」と自分たちに言い聞かせることは、気持ちの立て直しにも有効な半面、表出すべき感情を棚上げにしてしまい、かえって悲嘆が長引くこともある。家族の本音としては「そっとしておいてほしい」というところだろうが、マスコミや世間が「娘さんは勲章までもらって社会的な英雄なのだ」というイメージを押しつけてしまうことで、「もう放っておいて」とも言えなくなるのではないか。
そして何より気になったのは、首相自ら感謝状を贈るという点だ。これまでも人命救助はいくらでも行われてきたが、それらに対して首相がこうした行動に出たことはなかったのではないか。では「なぜ今回に限って」と考えると、やはり「世間でこれほど大きな注目を集めているから」という答えが浮かび上がる。はっきり計算したわけではなかったにせよ、「美談にさらに花を添える首相」という構図を作り、イメージアップを図ろうとしたのではないか、と考えるのは不自然ではなかろう。そういった意図がないのなら、何も官房長官に発表させずに、こっそり家族に感謝となぐさめの言葉を届けることもできたはずだ。
そして、これまた考えすぎかもしれないが、首相自ら「誰かのために命を捧げる行為は尊い」と“認定”することで、自己犠牲を肯定する価値観を醸成しようとしているのではないだろうか。首相はこれまでも繰り返し、戦後の日本社会は自己中心的な価値観が広まりすぎ、それが公の秩序の乱れなどを招いたと発言している。もちろん、人命救助が一足飛びに軍国主義の肯定にまで結びつくとは思わないが、「場合によっては自分の命を投げ出すことも必要」というメッセージがどこからか聞こえてくる気がするのである。
女性の純粋でヒューマニズムあふれる行為が政治の道具になってしまわないようにするためにも、私たちは感覚を鋭敏にしておかなければならないのではないか。