実は、小泉氏は3・11の後、しばしば講演やシンポジウムで脱原発の必要性を唱えてきたというが、新聞やテレビが注目することはなかった。毎日新聞に毎週掲載される論説委員・山田孝男氏のコラム「風知草」が、「小泉純一郎の『原発ゼロ』」と題して小泉氏の主張を正面から取り上げたのは、今年8月26日のことであった。
そのコラムによると、小泉氏は今年夏、フィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」を見学に出かけたそうだ。「オンカロ」は2020年から利用が始まるが、「原発の使用済み核燃料を10万年、地中深く保管して毒性を抜く」という説明を聞いて、小泉氏は仰天する。さらに、この施設は300年後に見直すと聞いて「みんな死んでるよ」と思い、「日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかない」と気持ちを固めた。
小泉氏自身、総理時代は原発推進派であったことを考えると、これは大きな転向と言える。しかし、興味深いのは、小泉氏が変節したのはこの原発問題に限ってのことのようで、ほかの点ではいささかもブレていない。記者会見でも尖閣問題や靖国神社参拝問題について語っていたが、「靖国参拝を批判する首脳は中国、韓国以外いませんよ」と相変わらず鼻息は荒かった。
さて、日本でこれまで「脱原発」を掲げて活動してきた政党や市民団体は、小泉氏のこの転向をどうとらえているか。しかも、小泉氏は「即ゼロに」と繰り返しているのだから、いまや反対派の中でもかなり急進的な立場に躍り出たともいえる。この急転回に多くの反対派はおおむね歓迎ムードだが、手を取り合って今後、運動を進めて行くべきかどうかについては、かなりためらっている。政党で原発反対を強く主張するのは共産党と社民党であり、反対派の市民団体の中にも「中国や韓国と仲良く」「弱者を守れ」など平和主義や福祉優先主義を唱えるところが少なくない。彼らにしてみれば、「原発には反対だが、中国については強い態度で、首相は靖国参拝も辞さずに」と語る小泉氏は“想定外の人”。自分たちの仲間ととらえてよいのか、それとも…と困惑しているのだ。
この問題を大学で議論してみたら、学生たちからは「小泉さんは自然」という声があがった。ある学生は言った。
「原発反対と政治的な“なになに主義”というのは本来、別次元の問題であるはずだ。それなのにこれまで、『脱原発』と言うだけで“護憲、エコ、死刑にも反対”とほかの問題に対するスタンスまで決められる感じがイヤだった。その人たちから見れば、原発反対と靖国参拝を同時に語る小泉さんは矛盾した存在かもしれないが、本来は小泉さん的なあり方のほうが自然なはずだ。原発はやめたほうがいいけれど憲法九条は変えるべき、という人もいていいし、逆にバリバリの護憲派だけれど原発に関しては推進派で、という人がいてもいいのではないか」
すると多くの学生が、「そのほうが多様な社会」「人間を主義やポリシーでひとくくりにするほうがおかしい」と賛同したのだ。
私自身、原発を止めさせたいと真剣に考えるなら、「コイズミさんは新自由主義の人だし」と毛嫌いせず、「これはこれ、あれはあれ」と割り切って手を取り合うべきだ、と考える。この際、原発以外の政治的主張や人としての好ききらいなど言ってられないはずだ。しかし、ここで「いや、わが党としてはいくら何でも自民党の元総裁とは握手できない」などと言うのであれば、それは「脱原発」はカモフラージュだと言われても仕方ない。
あなたの「脱原発」はどれくらい本気なのか。小泉氏は期せずして、私たちにそう問いかけるという役割を担うことになった。誰がどうこたえるのだろうか。