辞任の記者会見で猪瀬氏は「政治家としてアマチュアだった」「カネは生活に不安を感じて借りた」と繰り返したが、医療法人「徳洲会」グループから受け取った5000万円の目的や経緯についてはウヤムヤなまま。「都政にかかわる前、作家時代はあんなに歯切れがよかったのに」とその変質ぶりに落胆した人も多かった。
作家時代の猪瀬氏には、取材の対象がどんなに大きな権力でも臆せず立ち向かう反骨精神がみなぎっていた。取材の過程で、ときには厳しすぎるほどの追及を見せ、決して遠慮することはなかった。それなのに、いざ権力の座につくと、なぜこれほど自分に甘くなってしまうのか。権力に厳しい作家時代、自分の疑惑をウヤムヤにしようとする都知事時代、どちらが本当の猪瀬氏だと考えればいいのだろうか。
精神分析学者のフロイトは、無意識のうちに自分に不都合な欲求や衝動を消したり姿を変えたりしようとする仕組みが誰にも備わっていることを発見し、それに「心の防衛メカニズム」という名前をつけた。そのひとつに「反動形成」というものがある。これは、自分にとって許しがたい衝動が起きてくると、意識に上る前にその衝動とは逆方向の態度を取ることでそれを打ち消そうとする、というやや複雑な防衛メカニズムだ。わかりやすく言えば、堕落したいという欲求が隠れている人ほど、逆に厳格な態度を取ったり他人のなまけに厳しくなったりするということだ。
この「反動形成」に従って考えてみると、猪瀬氏には実は昔からおさえがたい権力への欲求があり、自分でそれを否定しようとするあまり、逆に「厳しく権力を追及する」という作家としてのスタイルを形成していったということになる。だから、都知事として権力の座についたのは、たまたまそうなったわけではなくて、猪瀬氏が長年、心の底から望んでいたことだったのではないか。
もちろん、作家としての姿勢の根本にあるのがたとえ「反動形成」という防衛メカニズムだったとしても、それじたいは病気でも悪でもない。こういう人はいくらでもいるし、結果的に作品がすばらしければ心の防衛は成功したということにもなる。
ただ猪瀬氏にとっての不幸は、自身が権力の座についてしまい、もはや無理やり「反動形成」などを行う必要がなくなったことだ。それはつまり、他人や自分の権力乱用にも甘くなるということでもある。自らをチェックする姿勢もすっかりなくなった猪瀬氏は甘い誘いに安易に手を出してしまい、結局は手に入れた権力を手放すことになってしまった。いまの猪瀬氏は「オレは権力なんか好きじゃないんだ」と自らに言い聞かせながら権力を追及していた作家時代のことなどすっかり忘れているはずなので、なぜマスコミや都議会、有権者が自分を厳しく批判するのか、よく理解できないのではないだろうか。
都知事選は14年2月とされているが、オリンピック準備を控えた大切な時期にいったいどんな人がその座につくのだろうか。少なくとも自分の衝動やコンプレックスの解消のために都知事を目指すといったタイプの人には、もう都政をつかさどる権力をわたしたくないものだ。選挙の際、それを見抜くのはなかなか至難のワザだが、「この人、昔とはまったく違っていないだろうか」という視点で見るのもひとつのポイントになるのではないか。