さて、今回の問題を考える上で、大きなポイントのひとつになるのが「中心となった研究者が女性」ということだ。面白いことに論調はふたつに分かれる。つまり、研究者が女性だったから「得をした」という人と「損をした」という人とがいるのだ。前者は「女性だから優遇されて多くの権威からのサポートを得られた」と、後者は「女性だから足を引っ張られた」と主張する。
ただ、いずれにしても女性はたとえ研究の世界といえどもニュートラルには扱ってもらえず、男性と同じことをしてもメリット、デメリットいずれかがあることが前提になっている。ここで「いや、研究者が女性であったことは一切関係ないでしょう」と言える人は少ない。
これまで女性の側も、仕事の現場で特別な目で見られるのは、たとえそれにより利益が得られるとしても望ましいことではないと考えてきた。たとえば、「女医」という表現にしても、多くの女性医師は「男性医師を男医とは言わないのに、女性だけそう呼ばれるのはおかしい」と拒絶してきた。一部のドラマなどの影響で「女医」という単語から官能的なイメージを抱く人もいたので、よけいに女性医師は「ただ“医師”とだけ表記してほしい」と望んできたのだ。
ところがここに来て、女性医師たち自ら「私は女医です」と名乗る動きが出てきた。いわゆる“女性らしい”服装やメークを強調したり、美女コンテストの優勝歴を誇り才色兼備を印象づけたりする女性医師もいる。これを時代の逆行と考えるべきなのか、それとももはや本当の意味で男女対等が実現したので、逆に女性は差別を恐れずに自分の“女性らしさ”を堂々とアピールできるようになったと考えるべきなのか。いつも判断に苦しむのだが、世代的に「女医と呼ばないで」と言い続けた私としてはやや複雑な気分だ。
ただ、今回のSTAP問題では、ファッションなどで“女性らしさ”をことさらに主張していた研究者は、突き抜けた研究実績があってその上で余裕を持って若い女性であることをエンジョイしていたかに見えていたが、どうもそうではなかったようだ。使うのもはばかられるフレーズだが、「女性であることを武器に研究の世界でステップアップしてきた」という批判もあながちウソではなさそうだ。
これは明らかに、社会でがんばる女性たちにとってはマイナスだろう。いくら実力で勝負しようとしても結局、「女だから」という目で見られ、何らかのバイアスがかけられるのだ、という世間の風評を助長する結果になってしまったからだ。自分の力でがんばっているのに「あなたは女性だから高く評価されているだけだ」と言われたら、本人のモチベーションも下がってしまう。またまじめな人であればあるほど、「もっと女性を強調しないと生き残れないのか」と悩むのではないだろうか。
また、女性の側もこれを機会に、「セクシー女医」といった称号や外見だけを話題にされることに対して「やめてください」と毅然とした態度でのぞむことも必要ではないだろうか。やっぱり人間の基本は、「中身で勝負」。これをいま一度、確認したい。