くわしい背景などはまだわかっていないが、ふたりはいずれも区立小学校の6年生で同じクラス。ふたりとも私立中学を目指しており、まわりには日ごろから「勉強が大変。睡眠時間が削られて疲れている」と言っていたとも、事件当日にはふたりでハグをして「最後になるね」と言っていたとも伝えられている。
たいへん痛ましいできごとだが、思春期や青年期の女子がふたり同時に自殺するという事件は、これまでも何度か起きたことがある。たとえば2001年には、福岡県の女子高生ふたりが東京都港区で飛び降り自殺を図り、ふたりとも死亡。現場に残されたメモには、「死ぬ理由もないけど生きている理由もない。しいて言えば疲れた」などと書かれていたと報じられた。
また映画監督の園子温は、女子高生の集団自殺を「自殺サークル」(02年)という映画で描いている。
一般的には、合意のもとでふたりが同時に自殺する場合、「恋愛」が関係していると考えられる。「ロミオとジュリエット」「心中天網島」のように、この世では結ばれない男女があの世での恋の成就を夢見て命を絶つ、というケースだ。
では、思春期の女子の心中の場合、そのふたりは同性愛関係にあったと考えられるのだろうか。それは違う。
アメリカの精神分析家サリバンは、10歳から14歳くらいまでに出現する同性同年輩の友人との親密な関係を「チャムシップ」と呼び、成長過程で不可欠なものと考えた。ひとりではまだしっかりした自我が形成されていない者どうし、お互いを鏡にしたり足りないところを補い合ったりしながら、まさに「ふたりでひとり」的な関係となって学校生活、社会生活を送りながら次第に“ひとり立ち”していくのである。
しかし、その「チャムシップ」の関係にはさまざまなリスクも伴うことが、その後の研究で明らかにされた。たとえばヘレーネ・ドイチュは、とくに女子どうしではその結びつきが強くなりすぎる傾向があり、 「同一化がいったんその限界をこえると、自我は危険にさらされ、その少女のパーソナリティーの特性は同一化によって根こそぎ失われてしまう」 と述べている。たとえば、一方が家庭的に不幸な境遇にあった場合、もうひとりはそうでなくても親友に同一化してしまい、ふたりとも「あんな親がいる限り幸せになれない」と悲観してしまう。片方が「世の中の大人はみんなひどい人ばかりじゃないんだからがんばろうよ」などと状況を客観的に見て相手を励ます、といった役割を果たせなくなるのだ。
また、同一化が強くなりすぎると、「この私たちの気持ちはほかの誰もわかってくれない」と世間全部が敵に見えてくることもある。この場合も、「私たちだけが世界の真実を見ている。でも、誰にもわかってもらえないのだから生きていても仕方ない」と虚無的な考えに傾いていきがちだ。
もちろん、このたび亡くなった少女たちがふたりでどういう会話をしていたかは、誰にもわからない。ただ、知的で感受性が強かった少女だからこそ、お互いが同一化を起こし、孤立と絶望をどんどん深めていった可能性がある。こういう少女たちに、大人はどういう形で介入していけばいいのか。二学期の初めにまた大きな課題が突きつけられた。