いずれの脅迫状にも、朝日出身の元記者が教員を続けるなら学生に危害を加える、といった内容が記されていた。大学にとって何より大切な学生への危害をちらつかされると、「毅然(きぜん)として対応する」とばかり言っていられなくなるのもわかる。とはいえ、大学でいちばん大切な人間は「学生」だが、同時に重要な概念は「大学の自治と学問の自由」なのだ。これまでは、後者を大切にすることこそが、すなわち学生を大切にすることにもなる、という方針でどの大学も運営されてきたのだが、ここに来て「学生を本当に守りたいなら、自治や自由や手放せ」という選択を迫られる事態になったわけだ。
実は、「大学の自治と学問の自由」を危ぶむ声は、脅迫状問題発覚の前から上がっていた。たとえばこの6月、学校教育法と国立大学法人法の一部が改正された。その趣旨は「大学運営における学長のリーダーシップの確立等のガバナンス改革を促進するため、副学長・教授会等の職や組織の規定を見直すとともに、国立大学法人の学長選考の透明化等を図るため」とされている。ひとことで言えば学長の権限が強化され、教員で作られる教授会の役割も「学長が教育研究に関する重要な事項について決定を行うに当たり意見を述べること」などとはっきり規定されたのだ。
民間の企業であれば、「会社のトップである社長が意思決定を行うのは当然、会議では部下が自由に発言しても最終的に決めるのは社長」ということになるかもしれない。しかし、繰り返すように「自治」を重要視する大学では、とくに人事や教育内容にかかわる問題は基本的に教授会で民主的な手続きで決められるのが基本とされてきた。理事会や経営者の権限が強い私立大学はこれまでもあったが、それはあくまで例外的な事態だ。
たしかに、トップダウン方式ではなく自治や民主制を重んじる運営は、必ずしも効率的とは言えない場合もある。かつて哲学者の土屋賢二氏と対談したとき、「民間の病院から大学に転職したとき、教授会があまりに民主的でビックリした」と私が語ると、大学教員でもあった土屋氏はお得意のユーモアを込めて「大学の会議ではどんな議題でもみんなひとこと語りたがる。たとえばゴミ箱ひとつ設置するにも、なぜ筒型ではなく角型なのか、と言い出す人までいる」と教えてくれた。
そういう意味で大学とは、あらゆる企業、組織が合理化、効率化をひたすら目指す中で、唯一、「たとえムダがあっても全員の話し合いによる合意の形成」を目指すという、“絶滅危惧種”のような存在であったともいえる。しかしながら、これまではこの姿勢が学問の発展や学生への豊かな教育につながると関係者の誰もが確信していたからこそ、立場に関係のない自由な発言、時間をかけた話し合いを続けてきたのだ。
今回の学校教育法などの改正は、その大学の姿勢を根本から否定するものだとも考えられる。何ごとも決めるのは学長、それに異議がある場合などは教授会で質問や意見を述べてもよい、というように意思決定の順番が変わることを意味するからだ。
もちろん、すぐに教授会の進め方が一変するわけではないし、私立大学は今のところはこの影響を直接には受けていない。しかし「今後どうなるのだろう」と懸念の声が上がり始めていた中で、今回の脅迫事件が起きた。そういう意味で、この事件の影響は単に脅迫状が届いたふたつの大学にとどまらない。北星学園は被害届を提出しているので、一日も早く犯人が逮捕され、大学が「自治と自由」を脅かす風に立ち向かう力を取り戻すことを祈りたい。